かいふう

近未来への展望や、如何に。

ある時代

例えば。

岸壁の母」♫と、「特攻の母」。その相違

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知覧こそ、靖國と並び日本人が一度は必ず訪れるべき場所だと思います。 修学旅行にも相応しい場所。 隊員の方々と同世代の頃、母になってから、子供が隊員の方々の年齢になった頃…と訪れる度に想いを深く致します。 鳥濱トメ様の命日に際し、国を守る為に命を捧げた全ての方々に哀悼の誠を捧げます。
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本当に優しすぎるぐらい優しくそして深い愛情を注いでくれました。その事は今でも私の心に刻まれています きっと今頃は天国の富屋食堂で散華されました特攻隊員達と鳥濱トメとで肩を組み皆笑顔で同期の桜のを唄っている事でしょう 今の日本を見守りながら 合掌 知覧特攻の母 鳥濱トメ 孫 赤羽 潤
足を運び手を合わせ、語り部をしていました。 夏の暑い日照りの日も、真冬の凍るような寒い日も、雨風の強い日も片手に杖を突き、もう片方の手には線香と花を持ち傘も差さずに雨に濡れながらの慰霊の日々でした。1年365日1日たりとも欠かした事はありませんでした。
そして、出撃の時には見送りに来る事が叶わない隊員達のお母さんの代わりに飛行場まで都度見送りに行きました。 トメは特攻隊員達の心を自分の心で優しく包み心の奥底の声を聞き、受け止めてきました。 戦後、トメは「あの子達は、もう本当の事を語ることが出来ない」と言い、毎日特攻観音堂
げました。特攻隊員達は「こんなご馳走食べさせてくれるのは嬉しいけど俺達はそんなにお金は持ってないよ。」すると、トメは「男の子がお金の心配なんかするんじゃ無いの」と、言い特攻隊員からはお金は一銭ももらいませんでした。 トメが私によく言ってました「私はねぇ皆のお母さんになりたかった→
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わたしも、行って来ました。 理由は、「わたしが来たのは、罪人を招くためである。」 その意味を、解くためです。 それは、衝突です。敵対でしょう。何故、彼らは、そんな若さで、死地へと赴かねばならなかったのでしょうか。いくら、考えても、解りません。 現地へ、わたしも赴くが、答えです。昔々
 
しかし。わたしが、たどり着いたは。彼らが、出発したその場所であって。わたしも、見送る側に留まる訳です。そこから先、行く理由も、義務も無い。 昨今。その当時と同様が、国難。 何を為せば。切り抜けられるか。それこそ真剣に考え。事を運ばねば為りません。 彼らが生涯、密度が濃い。鳥濱トメも
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2:4[編集]

それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容とのを軽んじるのか。

                                  ローマ人への手紙第二章 4

5:18[編集]

しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。

5:19[編集]

すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。

5:20[編集]

神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。

  コリント人への第二の手紙第五章18~20

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鳥濱トメさんが、営んでいた食堂は、「屋食堂」という。
皆さんは、気が付いたであろうか。
彼女が、その食堂名を付けたは。それでは、一体何時の頃だろうか。
彼女は、それまでに。秘かに、[聖書]を手にして。確率からいって、既に、上記。
ローマ人への手紙第二章 4、それを読んでいたのだろうか。
それから、引用為て。「富屋食堂」の看板を掲げたのであったのか。
時系列から、言って。
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特攻観音堂わたしも観た。
彼らが、納まるは。九段下、「靖國神社」であって。
左様な彼らに。[聖書]は、敵国が信仰の教義。
征く彼らに、それを指摘する者など、不用だろう。
 
わたしは、発見したのだから。それを、伝える