かいふう

近未来への展望や、如何に。

「宗吾霊堂」

kaihuuinternet2006-04-10

{佐倉の桜}とは、先年、千葉印旛沼畔の宿に泊まった時、部屋に置いてるパンフレットの見出しである。ここは訪問したかった。休みを利用して来た。その時期は、朝の食堂で近隣の学校のテニス合宿とおぼしき若い連中が居たので、夏期だったろう。周辺には、ギンヤンマかオニヤンマだかの群生の圧巻もあった。
少年時観た「明治天皇と日露大戦争」を演じた俳優が、白黒画面で村の庄屋さんをしている。エライ低姿勢で役人に頭下げたり、農民と一緒に大勢で出掛ける。老中の駕籠行列に直訴する。挙句の果てが、竹柵の中、外からの農民たちの悲嘆の声ごえのうちに、磔刑に処せられ、幼い4人の子らもムシロ上から打ち首になる。名優は、嵐寛寿郎。初代鞍馬天狗でもある。
当時の処刑場が、現在真言宗別格大本山鳴鐘山東勝寺、通称{佐倉宗吾}、ご本尊が義民であるが故。敷地奥には菊人形だったかの御一代記館があり、研究書も購入した。
帰り際、竹柵外駐車場から、まるでその当時の農民のごとく祈った。そして旧宅まで行き、子孫の女の方に会う。更に、禁を破って江戸へ行くのを手伝った甚兵衛渡し、その場まで夕陽を浴びて行った。
広い敷地内、{東洋のメシア}の立て看板には少々驚いたが、それも磔刑を裏付けるものだ、と学者ぶった。二度目は、霊宝殿で記帳された4人の子らの名を見た。嵐寛さん主演映画の奉納フィルムもあった。甚兵衛さんの社もあった。
後日購入した研究書を紐解くと、3代将軍家光公が病で死ぬ時、幼少の頃より仲良かった佐倉藩主堀田氏を、今で云う無理心中に誘った。病死がさみしいから付いて来てくれよ、という訳、断れないだろう。で、その時の家臣の鬱積が、後年藩の実情を江戸に直訴に及んだ宗吾一家に、追加されたのではないか。また学者ぶった。
日本人には外せない場所だろう。とりわけ農業に携わる若い人は訪ねてほしい。