かいふう

近未来への展望や、如何に。

『ぼくの{織姫}様たちなのかな』

何故か、凶悪事件に、犯人が人違いでのそれ、も含めて、若い数人の女性の名前を憶えているのだが、毎年猛暑対策で確認作業する訳ではない。何の落ち度も、それに相当する罪も見当たらないのに、被害者として在るのだ。そして何故、このような自分が記憶に留め、消せない、というより消えない、のだろう。
「死者の奢り」というノーベル賞作家の作品を、以前ラジオで脚色したものを聴いた。
少年は、先に死んだ{兄貴、姉貴}を慕って追いかけていいんだけれど、ある日、その時は来る。真実慕って居る内は、それでよい。しかし、それが先程、という過去に行った時、もう卒業なのだ。もはや、そう出来ない身ならば、それは苦になる。偽りになる。「オルフェ」ではないが、愛しい者が囁き掛けても、そうおもいたくても、前に歩まねば。青年は、その後かっての少年を、次の少年に見出すことはあっても、時々少年のように振舞うことは許されても、甘えてばかりだと、すぐ壮年(中年)が声掛ける。翌日白髪ばかり。
だから、とりわけ【葬式】に、あるいは{通夜}という、『儀式』に、そこに集う参会者と共になんのはばかりもなく、その場で思いっ切り悲しむ、泣く。

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掲載「短冊」は昨年のものです。
勿論、今年も、拉致被害者全員帰国、それを願うに変わりありません。