かいふう

近未来への展望や、如何に。

『それって、クリスチャンの意地』

「エマオ学園」の人びとのことを知ってもらいたくて、「エマオの人びと」という写真集を、考えたことがあった。実際、その職場から離職後、それを叶えて、郵送した。その写真集が、同じ自治体の合同施設展示会かの会場で、その施設名のコーナーで、開かれたアルバムとして、訪れた地域住民の眼に触れれば、それでいいのだ、と。
しかし、勝手に撮影し、同様に送りつけてきたものを、そういう年中行事の展示会かの会場で置くかどうかは、そのそれぞれの施設長の自主判断であろう。
入所者の家族たちひとりひとりに、意見を求めるとしたら、肖像権の問題だからである。本人が、承諾か否か、ができぬなら、後見人というか、個別の家族たちひとつひとつに、問うはず。
ならば、施設として、そういう催事に限って、許可はあり得る。事実するかは、また話が違う。
自宅療養で施設入所から出たある人の居宅を訪ねての折、その家族から、その仲間の写真焼付けの郵便物を見せてもらった。自分にとっては、間接的な報告であった。

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それを、ネットに載せるかどうか。
著作権は撮影者にある。しかし、撮影して四半世紀も経て、肖像権本人どころか、その家族たちの健在さえ情報が皆無なのに、どうか。
一枚の写真、はこのブログの項目かでも取り上げてきたが、同じ被写体でも、それは否、これはOKもあるやも知れぬ、ということだ。

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そうだ。施設建物だけなら、いいだろう。もう壊されてなくなって、その「エマオ学園」の存在さえ疑われるなら、かって在ったんだ、その証拠だ、その証拠品たる写真を公開するは、自称クリスチャンの証にもなる。
他人を説得するには、論理が要る。しかも、それを実行するには、論理的にわかりやすくするのが、説得というものだ。

「復元 単立イエス・キリストの教会」の建物写真掲載も、未だ諦めてはいない。
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先週辺りから、以前読経を聞いたある家の玄関扉に、クリスマスの円い飾りが付いてある。
そうか、クリスチャンも、『歳暮マリア』も、歳末は玄関ノックするかも知れぬからな。
ところで、自称クリスチャンの自分の家の玄関に、それならどうして、クリスマスの円い飾りが無いのだ。
この矛盾か、首をひねった。
クリスマスが近づくにつれ、首が痛くなるよりか、首飾り、もとへ、円い飾りを買ってきて、付ければいい。それで、さがしに、スーパーに行った。
クリスチャンは、それは夜でも国際情勢に詳しくナイトと、為替換算で1ドルやや越えの、もうそれしかない円い飾りを購入した。そして、年が明ければ値上げするという老舗のミルクチョコレート、国産なのでレート換算はしなかったが、10枚1箱。