かいふう

近未来への展望や、如何に。

「キリスト教概論」を読む。

kaihuuinternet2008-05-04

浅野順一編である「キリスト教概論」を読む。
その中の、終わりに載ってる年譜を見ていたら、所々、拾い読みしてしまった。
この本の中では、ヨハネは、福音書、手紙、黙示録、それぞれ違うヨハネであろう、との説をあげている。
以前、ここの中での案内では、如何にも福音書と、黙示録の書き手が同一人らしく、云ってしまったので、お詫びはせずに、各自読み比べて、その中で重なるものもあるか、判断してほしいです。
この「キリスト教概論」は、某ミッションスクールの当時教授陣が執筆なるもので、現在も刊行があるか、知らない。
購入当時から、小さいポイントでの印刷で、その分ボリュームを感じ、読みこなす気迫が、当方なかった。
この度、内村鑑三と「無教会主義」、で探したら、その辺の時代状況も、三派に分かれた流れも、わかった。内村鑑三と「無教会主義」は、その流れのひとつとして、記載されてある。
複数の分担執筆だろうから、ここでは、その区分と担当者名には拘らない。
しかし、自分には、幾つかの発見があった。
そのひとつ、キルケゴールは、ブルトマンに近い、という指摘である。
そのブルトマンは、奇跡と、奇蹟は違う、と述べている。奇蹟は、奇跡の常用外とは、このOSでの使用ソフトの解説ではあるが。要するに、英語でいう、ワンダーと、ミラクルとの違いだ、そうだ。
再掲だが、劇映画「奇跡の人」は、原題「ミラクル・ワーカー」で、少年時観た時は、三重苦のヘレン・ケラーと受け取ったが、どうも家庭教師のアニー・サリバンらしい。ポスター題名の「蹟」か「跡」の選択は、その採用者に聞くべし。
ところが、ヘレン・ケラーが来日で、すでに病床の「長崎の鐘」の永井隆博士と対面すると、そうまでするヘレン・ケラー女史が、ミラクルなのか、ワンダーなのか。
勿論、ブルトマンが指摘は、クリスチャンを前提のもの言いであるからして、ヘレン・ケラー女史がおそらくクリスチャンであって、渡洋して被爆者の博士に会うのは、ワンダフル・ワークであって、彼女自身の三重苦を克服したミラクル・ワーカーである、のみではない事は、確かだ。
ブルトマンがその区別とは、イエスにおいてあらわされている神の愛の意志を受け入れる決断をした時に、真の生への歩みを踏み出すことを、ワンダーと言い、自然の法則を停止させたり破ったりして生起するミラクルと、分けたことである。
そういえば、「ヨハネ福音書」から、よく引用される定番。
ブルトマンの思想は、神は、われわれを愛するものとして、われわれにイエスをおくるところの人格的な存在。
同「キリスト教概論」では、キルケゴールの三段階の最後、それにも(a)と(b)があると、記述する。
キルケゴール、彼の出生の秘密を知って、驚愕した。しかし、その私的な確率的に極々のそれを超越して、なお国の教会への弊害というか欠落部というか、それを独り糾弾した彼の憂愁の孤軍奮闘に、敬愛を抱いた。
白夜の北欧に生を受けしは、とても南米のカーニバルがごとき陽気なスタイルは取れないだろう。

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ならば、各自。身近や周辺で起こる事象や出来事が、何がミラクルで、はたまたワンダーか。

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『神は死んだ』のだから、超人になれ、と言う。
ワルキューレ、というは、ワグナーでしたっけ。
リヒャルト・シュトラウスが作曲した交響詩。1896年、フランクフルトで初演。『ツァラトゥストラはかく語りき』と訳されることもある。
1930年代後半のナチス・ドイツの台頭、ワグナー好きのドイツ人に、彼と友だちであった、ニーチェの『神は死んだ』は、取り込みやすく、いい様に利用されたでしょうね。
あの当時は、傘下に留まったハイデッガーでさえ、無神論実存主義を唱えましたから。ナチスが追いやってしまった。だから、その下にある哲学者は、無神論。当然じゃ、なんて。
危うく、ひと月程早く、米軍などによって解放された同業ヤスパースは、有神論者ですから。
何だ、ただのリアリストじゃないか。結果論なら、後世何でも言えます。
当世、この国でもまたぞろ、ニーチェが闊歩してます。
あの当時利用されたが故、当時同盟国としてのこの国が、非キリスト教徒即ち無神論諾、という短絡で、日替わり定食OK、の若者たちに受けるのかも。
一世代前、同様だった私とすれば、老いた身で、たとえ入門でも、先駆者有神論のキルケゴールを挙げる。
森の奥深く、ゲルマン民族が、陸続きのヨーロッパにおいて、
北のバイキング、南のローマン・カトリック、西のナポレオンの国、そしてツァーと農奴のシベリアを含んだロシア。
周辺諸国の動静も嗅ぎとって、『超人』思想をぶち上げても、それが後年、共産主義、スターリズムの脅威と侵略から、国防意識を、ナチズムが、孤高の哲学者の予言的態度を、手前勝手に解釈して、我田引水しても、もはや故人の彼ニーチェには為す術もない。

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youtubeで公開されているニーチェものに、『over_man』とあるのですが、これって、『超人』の英語訳、らしい。
すると、[superman]とも、違うようだ。
となると、ニーチェ永劫回帰とやらで、云わんとした事は、
「越人」が真意なのではないか。
『神は死んだ』、で絶望した者が、『超人』を目指すだろうか。
『神は死んだ』、でも、更に越えて生きよ、の方が、彼の言わんとする真意に近い、のではなかろうか。
それだから、翻訳はコワい、のである。

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すると、二十歳の時の、北の大地における、あの出来事をふと思い出した。
誰もいない牧草地でトラクターに乗り、エンジンキーを入れ、ハンドルを握り、見上げた大空が余りに青く澄んで、そのワンダーに、頭が真っ白になって、後ろに傾き、その対して重くもないのにつられて、ハンドルを握っていた腕が手前に引いたら、いきなり乗っていたトラクターが後退し、エンジンの回転音に、もしや絶対音感の無自覚所有者という集中力が働いたが故か、後方刈取り終了斜面を降り、入学金も無駄にする、哀れな短い生涯を閉じる最期を、本人の過失による、事故死での顛末。
一瞬、死ぬ、とおもったのが、停車した車体から振り向けば、樹齢何十年かの一本の樹木が沢斜面でトラクターを支えていた。涼しげな顔した樹木が支えている。
あぁ、助かった、とおもった。
そのままから、その重量ある車体のトラクターを、また引き上げたのは、バイトの雇用主である。後日、そのトラクターが平気な顔して牧場敷地内にあるのを見た。
ない頭で考えても、その間に起きた事が、未だにわからない。
わずかにわかるのは、未熟な若者の、大自然に驚嘆して忘我になった瞬間を、それから派生した事故を、また生きている樹齢何十年かの一本の樹木が受け止め、大事に至るのを防いだ、という事だけである。生きている樹木を見つけたワンダー、だろう。
まさにそれは、いのちの木、ではあった。
そして、事故で斜面に動かぬ重量あるトラクターを、再び定位置に保管せしめたのは、人力によるに相違なく、それは、どう探せど、雇用主家族と、もしかしたら、何キロもある隣の農家の同じトラクターでの応援だったろう。それは、ならば、ミラクル・ワークと呼んでよいものだ。
自然も、そして北の大地も知らぬ未熟者が、そのワンダーとミラクルを同時に体験した
、出来事であった。
雇用者は何も咎めず、寛容であった。その懐の深さと広さは、そのまま北海道である。
自然の中で仕事する厳しい生活と、だからこその豊かな恵みを、身に沁みた貴重な体験であった。

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上記文中、絶対音感の無自覚所有者、などと軽グチたたくほど、ミラクルな気分なんだ、ワンダー。おそらく、持って無いです。
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某紙面で、小川国夫さんが訃報を知る。おそらくカトリックでしょう。彼の「ある聖書」は買ったまま、読んでない。狐狸庵さんの本もかなりあるけれど、読んでない。なんとか、したい。