かいふう

近未来への展望や、如何に。

首相、公約を果たす。

kaihuuinternet2006-08-15

小泉首相終戦記念日の15日朝、東京・九段北の靖国神社を参拝した。

本殿に昇り、首相名で記帳した。首相は2001年の自民党総裁選で8月15日の参拝を公約したが、従来は中国、韓国などに配慮し、日付をずらして年1回参拝してきた。在任中の最後の参拝で公約を実現し、靖国参拝批判に譲歩しない姿勢を明確にした。

現職首相の8月15日の参拝は1985年の中曽根首相(当時)の公式参拝以来、21年ぶりだ。中韓両国は強く反発しており、9月の自民党総裁選で靖国問題が大きな争点となるのは確実だ。

小泉首相靖国参拝は6回目で、05年10月以来。

モーニング姿の首相は午前7時40分、公用車で靖国神社に到着した。「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳した後、47分、本殿で祭壇に一礼した。献花料として私費で3万円を納めた。

昨年10月17日の前回参拝時は、「昇殿参拝」を避け、拝殿前の社頭で参拝した。今回の参拝形式は04年までの参拝や中曽根首相の公式参拝と基本的に同じだ。参拝後、首相は首相官邸で、「去年みたいな形で行くと警備も大変だ。そういうことも考えて本殿に参拝するのが適切だと判断した」と記者団に説明した。「ポスト小泉」の最有力候補の安倍官房長官は今年4月に靖国神社に参拝している。首相の15日の参拝は、次期首相が参拝しやすい環境を整える狙いもあったとみられる。

首相の参拝に反対する中国は05年4月以降、韓国は同年11月以降、日本との首脳会談に応じていない。9月の首相退陣前に、両国との首脳会談が実現するのは難しい情勢だ。今後、総裁選では、首相の参拝の是非のほか、A級戦犯分祀(ぶんし)、靖国神社の非宗教法人化などの論議が活発化しそうだ。

首相の靖国参拝については、昭和天皇A級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示したとされる当時の宮内庁長官のメモが7月に明らかになったことなどを機に、国内で慎重論が広がっていた。(2006年8月15日読売新聞)
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小泉首相は15日午前、東京・三番町の千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れ、献花した。

墓苑には昭和戦争中に海外で亡くなった身元不明者や遺族のいない人ら約35万人の遺骨が納められている。(2006年8月15日読売新聞)
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やはり、当日ならば、両方行きます。
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小泉首相が15日に靖国神社に参拝したことに対し、国内では反発の声も相次いだ。

首相の靖国神社参拝に反対する戦没者遺族らでつくる市民団体「平和遺族会全国連絡会」は、参拝の約2時間後、靖国神社から約500メートル離れた日本教育会館で集会を開いた。300人収容の会場は立ち見が出るほどの参加者で埋まった。

兄が戦死した同会代表の西川重則さん(78)は、「8月15日は本来、静かに戦争について考え、故人をしのぶ日であるべき。すべての戦没者遺族が参拝を望んでいるわけではなく、参拝の強行は一部の人たちを喜ばせるだけだ」と訴えた。

中国・韓国との交流を重視する立場からも抗議の声が上がった。日中友好協会の村岡久平理事長は、「歴代首脳が培ってきた東アジア諸国との相互信頼を無にした小泉首相の責任は重大」とする談話を発表。在日本大韓民国民団中央本部は、「参拝は近隣諸国の不必要な不信感を増幅させ、無用の摩擦を引き起こすばかり」との声明を出した。

日本弁護士連合会の平山正剛会長も談話を出し、「このような形での参拝は公式参拝と評価せざるを得ない」と指摘したうえで、「靖国神社を援助する効果をもたらし、国の宗教活動の禁止を定めた憲法の精神にもとることは明らかで、誠に残念だ」と述べた。(2006年8月15日読売新聞)
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終戦の日]「『昭和戦争』の責任を問う」

「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」

昭和天皇が1987年、「終戦の日」を迎えて詠まれたお歌である。

今年も「この日」が巡ってきた。東京・九段の日本武道館で全国戦没者追悼式がとり行われる。

式典には、天皇、皇后両陛下とともに国家三権の長である衆参両院議長、首相、最高裁長官が参列する。日本国としての最も厳粛な行事である。

追悼の対象として、いわゆるA級戦犯も排除されているわけではない。

他方では、なお、靖国神社へのいわゆるA級戦犯合祀(ごうし)問題が国論を二分するような状況が続いている。なぜなのか。

要因の一つは、「A級戦犯」が、軍事裁判(東京裁判)を行う戦勝国によって類型化されたものであって、戦争責任の所在が日本自身の手で検証されなかったことにあるのではないか。

敗戦直後には、日本政府部内にも、戦争責任を糾明しようという動きは、いくつかあった。東久邇内閣の戦犯裁判構想や幣原内閣の戦争調査会などだ。連合国軍総司令部(GHQ)の意向などによって、頓挫した。

読売新聞は、昨年の夏以来、東京裁判の「戦犯」概念とは距離を置く形で、政治・軍事指導者たちの責任の解明作業を続けてきた。戦争への道を推し進めた責任、戦争を阻止できなかった責任、戦争を早期に収拾できなかった責任である。

検証の対象期間は、日中戦争に先行して1931年に始まる満州事変から、対米英蘭(らん)戦争の終結までである。

この間の一連の戦争については、いまだに呼称さえ定まっていない。大東亜戦争、太平洋戦争、アジア・太平洋戦争、15年戦争……。いずれも地理的、あるいは歴史経緯的に、なんらかの難点が伴うためだ。

読売新聞は、これを地理的概念や歴史観とは関係のない「戦争の期間」で括(くく)り「昭和戦争」と呼ぶこととした。

検証作業の内容は、これまで随時、紙面で報告してきた。今日の紙面は、8月13日付紙面と併せ、そうした作業の集大成である。

検証の結果、いわゆるA級戦犯の多くが「昭和戦争」の責任者と重なった。

だが、重ならない例も多々あった。

たとえば、「A級戦犯」として絞首刑になった木村兵太郎大将は、戦前・戦中の重要な局面で、特段の責任を問われるほどの役割を演じた形跡はなかった。

また、同じく「A級戦犯」で、終身刑の判決を受けた賀屋興宣蔵相には、日米開戦時の閣僚だったという以外の戦争責任は見当たらない。しかも、開戦には反対していた。

逆に、戦争を終結に導いた“功績”がしばしば語られてきた鈴木貫太郎首相にも、「終戦」の時期を先送りして原爆投下とソ連の参戦を招いたという意味での戦争責任があった。

重大な戦争責任がありながら、死去したがゆえに、「A級戦犯」となることを免れた最高指導者たちもいる。

代表的な例が、自決した近衛文麿首相である。決定的諸局面での優柔不断、判断ミスの連続で、ずるずると軍部の主張に押し流された責任は、極めて重い。

松岡洋右外相も、日独伊三国同盟の推進・締結という国際情勢についての誤断により日米開戦への道を開いた。「A級戦犯」として起訴されたものの、判決前に病死し、判決は下されなかった。

その他にも、いわゆるA級戦犯以上に実質的な戦争責任があったのに、訴追もされなかった軍事官僚たちがいた。陸軍参謀本部、海軍軍令部の参謀である。

これら参謀の多くは、軍事紛争拡大・開戦・戦争継続に向けて上層部を突き上げ続け、時には越権行為まで犯しながら300万人以上の兵士、国民の死に対して何ら責任を負うこともなく、戦後、安穏に畳の上で死んでいる。

もちろん、「昭和戦争」の犠牲者は、日本国民だけではないが……。

戦争に至った経緯、その後の展開は、当時の国際情勢や、それぞれに世界戦略を描く列強の思惑、駆け引きなどとも複雑に絡み合っていた。

たとえば日中戦争で、米国は日米開戦以前から、蒋介石・国民党政府に対し、「援蒋ルート」を通じて軍事物資を提供し、背後から支援していた。

1939年に始まるソ連フィンランド侵略に対し、英仏はいったん対ソ遠征軍の派遣を決めている。しかし、フィンランドソ連に屈服したため、英仏とソ連は衝突に至らなかった。

ソ連の対日参戦は、日ソ中立条約違反だが、背景には、参戦を要請した米英とのヤルタ密約があった。

だからといって、そうした国際情勢への対応を過ち、無謀な戦争を始めて日本国民と近隣国に惨禍をもたらした政治・軍事指導者たちの責任を曖昧(あいまい)にしていいわけはない。

その責任を日本自身の手で解明・総括しておかなくては、戦勝国側の戦争責任や戦争犯罪を批判するのも難しい。歴史認識問題の解決への展望は、そこからしか開けない。(2006年8月15日読売新聞・社説)
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靖国神社は15日、同日の参拝者数を約25万8000人と発表した。

昨年より約5万3000人増え、同神社広報課は「近年では最も多い人出だった」としている。(2006年8月16日読売新聞)