かいふう

近未来への展望や、如何に。

拒食症だけでは死なないだろうに。

大阪市などで2006年11月、救急搬送された同市都島区の少女(16)が、周辺の7病院に受け入れを断られ、翌朝に死亡していたことがわかった。

市消防局などによると、11月30日午後10時20分ごろ、少女の意識がもうろうとしているのに母親が気づき119番通報した。救急隊の到着時は意識があったが、約1時間後に8番目の大阪府守口市内の病院に搬送されたときには少女はショック状態で、約1時間後に心停止状態となった。

少女は翌日午前9時ごろ、心不全で死亡した。

病院側は「搬送の遅れと死亡との因果関係は分からない」としている。

少女は拒食症で、過去にも救急搬送されたことがあったという。(2008年1月19日読売)
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シベリア抑留者が死ぬのに、ただ凍土の極寒だけではなく、飢餓が絡んで、すなわち摂取する食べ物のカロリーが不足して、体温が保てなくて、死に至る、のを理論的にも自分に納得させた時から、最低のカロリーだけは確保しようと、常々言い聞かせている。

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少女の死の原因が拒食症ならば、その症状に依存するきっかけは、何だったろう。生命を維持する行為としての食事。栄養を補給しなければ肉体は衰え、動物である人間も機能停止になる危険があること。育ち盛りは、食べていいこと。
戦争があって、食べたくとも食べられないで亡くなった人たちもいるのだから、平和であるあなたは、十分食べていいのよ。そう話掛ける大人は皆無だったのだろうか。
別の理由があったならば、それが食欲不振の精神的病ならば、投薬受けても治るまで、その治療を受けなかったか。
若い時は極端もあるだろう。断食して、聖者になる真似したりして。
断食だけでなれるんなら、そんな楽な方法はない。
TVを見たまえ。大食いも今や芸の内ではないか。体質もあるのだ。
食ってもいい、無駄にしなければ。スゴいとおもわせるのが、娯楽番組だろう。

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また、こんな例しか挙げられないが、チャップリン無声映画に、「黄金狂時代」だったか、寒くて飢えて、主人公が靴を食べる場面があった。モノクロであった。
本当に飢えると、妄想するのだ。

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ある書物には、40日間断食した人もいる。でも、それは彼だからであって、そこまで真似せよ、とは書いてない。

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ひとつの若い命が消えたことを、惜しむ。悲しむ。
それが、拒食症などというものならば、少女を喜ばせ、それが叶わぬならば、せめて笑わせても、回復を取り戻せたなら、とおもう。
だから、喜劇の王様の至芸を観たなら、と持ち出した訳だ。
しかし、結果、人の命を笑いが救うのであれば、それはもう芸術ではないか。
いかん。人の死を利用して、笑いの効用を述べてしまったようだ。

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拒食症は罪ではない。拒食症に負けて、自分が保持すべき大切な身体に、必要な食物を受け入れてあげない、ご主人たる本人が、いけない。飢えて死ぬほどの国ではない、この国で。
彼女の年齢なら、言って聞かせれば、わかる年齢だったろう。

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チャップリン『独裁者』も、脚本も彼なら、初めて声を発するのも本人。映画館の外は数少ない有史以来の悲劇と流血の歴史が進行しているのに、声ある者が、そうせずにはいられない。
喜劇の王様、の賛辞は、この作品をおいて他思い浮かびません。

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今や、時代も変わり、その映画が描いたもうひとつのテーマが、政治的課題として、近年、むしかえされ、長年に及ぶ行方不明者の安否が問われています。それは、ここでいうのとは違う、非映画的で非文学的なものなんだけれど、東洋での喜劇映画は、それは時代背景も、方や大陸で国境も周辺幾つもの他国と陸続きなんだろうけれど、チャップリン『独裁者』のような映画は、出てこないのは、歴史が違うからだろうか。素地の認識が培われて来なかった故だからだろうか。それは、たとえ8ミリであろうと、その実態を潜伏してでも暴く、記録映画という形態を取るしか、告発、警告する術を持ち得ないからであろうか。
時代が移り、業界の異なるタレントから、宿題を提示された、違うタレントは、そろそろ、リレーされたそれを解決する事の必要を思わないのだろうか。
文学としての小説が劇映画化され、その観客が、隔離幽閉された社会の民主化を望むのは、然るべき課題と受け止めないのだろうか。