かいふう

近未来への展望や、如何に。

「被爆者の哲学」とは。

kaihuuinternet2007-08-06

広島市中区原爆ドームそばを流れる元安川で6日夜、原爆死没者を慰霊する「灯籠(とうろう)流し」があり、白やピンク、黄色など約1万個の鎮魂の淡い光が水面に揺れた。

午後6時ごろから、遺族らが、平和の誓いや犠牲者への追悼の思いを込めた絵などを描いた灯籠に火を灯(とも)し、大勢の被爆者が水を求めて飛び込んだ62年前に思いをはせた。

原爆で両親と弟を亡くした広島県廿日市市の無職矢可部(やかべ)喜代子さん(76)は「今年も会いに来たよ」と、声をかけながら静かに灯籠を川に流し、手を合わせた。(読売)
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午前の平和公園の記念式典における、秋葉市長の宣言の中に、紙面で「被爆者の哲学」を見つけた。
熱線、衝撃波、放射線を浴びた被爆者が、それを語る時、単に語り部としてではなく、被爆者の哲学としても述べることだろうか。
西洋の文豪の言に、「哲学は成熟した理性。それを言語で表す」とある。60年から更に2年を経て、被爆者としての当事者が、他の代わることが不可能な国民に、また核兵器を保持する他国民に、伝言として。重いな。
無論、自分に用意されるなら、それは{被爆者を支援する哲学}ということになろうか。こっちの方が軽いに決まっているが、それさえすぐには回答出来ない。でも、なくても、支援する人びとは、それをしている訳でしょう。