かいふう

近未来への展望や、如何に。

頭部だけ残った「被爆マリア像」が初めて列に。

kaihuuinternet2007-08-09

長崎は9日、被爆から62回目の原爆忌を迎えた。

爆心地に近い長崎市松山町の平和公園では、市主催の「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が開かれ、被爆者や遺族ら約5500人が参列した。田上富久市長は、久間章生前防衛相の原爆投下を巡る発言や閣僚らによる核保有論議の容認発言などを踏まえ、「平和宣言」で「被爆国のわが国においてさえも、原爆投下への誤った認識や核兵器保有の可能性が語られる」と憂慮を表明。日本政府に対して、被爆国であることを自覚し、国際社会で核兵器廃絶に向けた強いリーダーシップを発揮するよう求めた。

式典は高校生が打ち鳴らす「長崎の鐘」を合図に午前10時40分から始まった。この1年間に亡くなったり、新たに死亡が確認されたりした3069人の「原爆死没者名簿」3冊が平和祈念像前の奉安箱に納められた。名簿の累計は14万3124人となった。

遺族らの献水に続き、安倍首相、秋葉忠利広島市長、今年初めて参列するパキスタンイラクの駐日大使を含む過去最多の15か国の政府代表らが、被爆者や遺族代表とともに献花。原爆投下時刻の午前11時2分、「長崎の鐘」やサイレン、長崎港の船舶の汽笛が一斉に鳴らされ、参列者は黙とうをささげた。

田上市長は「平和宣言」の冒頭で、今年4月の銃撃事件で死亡した伊藤一長(いっちょう)・前市長が1995年11月、国際司法裁判所(オランダ・ハーグ)で、被爆して黒こげになった少年の写真を掲げて「核兵器使用は国際法違反」と訴えたことに触れ、「前市長の核兵器廃絶の願いを受け継いでいく」との決意を表明した。

続いて、核兵器を巡る国際情勢について、「核不拡散体制そのものが崩壊の危機に直面している」と強調。パキスタン北朝鮮などによる新たな核兵器保有、イランの核開発疑惑などを挙げ、「核兵器使用の危険性を一層強める」と危機感を示した。

日本政府に対しては、「非核三原則の法制化」と「北東アジア非核兵器地帯構想」の実現を提唱。北朝鮮の核廃棄に向けて6か国協議で粘り強く努力することを要望した。

この後、被爆者代表の正林(まさばやし)克記さん(68)が「平和への誓い」を述べ、原爆投下を「人類の悪魔でした」と振り返り、「立場や都合で正当化するものではない」と訴えた。

安倍首相は「長崎、広島の悲劇は、いかなる地においても繰り返してはならない。今後とも、憲法の規定を遵守(じゅんしゅ)し、非核三原則を堅持していくことを誓う」とあいさつした。

今年6月、原爆投下を「しょうがない」と発言した久間前防衛相は、例年、県選出国会議員として出席していたが、今年は出席を見送った。(読売)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
長崎に62回目の夏が巡ってきた。ただ1発の原爆によって地獄を見た日。肉親を失った被爆者たちの悲しみは癒えず、放射能の影にも苦しめられ続けている。平均年齢74歳。次世代に、そして世界に、被爆地の思いを伝えて行かねば――。「あの日」と同じような炎天を見上げた被爆者たちはそっと目を閉じ、平和への祈りを新たにした。

◆原爆は悪魔「誰も正当化はできない」…被爆者代表の正林さん◆

「一瞬にして、無差別大量殺戮(さつりく)をやってのける悪魔でした」

長崎市平和公園で開かれた平和祈念式典で「平和への誓い」を読み上げた被爆者代表の正林(まさばやし)克記さん(68)(長崎市愛宕1)は、多くの市民の命を奪い、苦しめている原爆をこう表現した。

爆心地から1・3キロ離れた自宅近くの丘で3歳の妹とセミ取りをしていた6歳の時。飛行機のエンジン音が聞こえた。立ちすくむ妹を引っ張り、近くの小屋に飛び込んだ瞬間、真っ白い光と爆音。そして熱風が襲ってきた。

左下腹部に竹が突き刺さり、肉がえぐれた。衣服が焦げて血を流す妹を背負い、さまよった。「お父さん」。戦死した父を呼び、泣き叫んだ。

その後数年間、吐血を繰り返した。妹は後遺症のため頭の手術を受けた。元気そうに見えた人たちが突然、血を吐くなどして亡くなっていった。入退院を繰り返していた母も約10年前、がんでこの世を去った。

「時を追うごとに増え続ける未曽有の悲惨さ。今も、障害に苦しむ多くの被爆者。あまりにも、不条理であります」

長崎県被爆者手帳友愛会副会長を務め、「誓い」を読み上げる代表に推薦された。

「誓い」の原稿が完成に近づいたころ、原爆投下を巡る久間前防衛相の「しょうがない」発言が問題となった。数日後、米国のロバート・ジョゼフ核不拡散担当特使が原爆投下の正当性を強調した。

怒り、むなしさ、危機感――。様々な感情がこみ上げた。「被爆者の思いを伝えなければ」。それまで被爆の状況を中心に記していた「誓い」を大幅に書き直し、自らの心情を率直に吐露する言葉を盛り込んだ。

「原爆投下は、人類の真理に背き、それぞれの立場や都合で、それを正当化し、肯定するものではありません」

核兵器廃絶に向け何ができるのか。10年以上、保護司として更生の現場に立ち会ってきた自らの経験をもとに訴えた。

「これからも、核兵器のない世界の恒久平和を願って、足元から微力を尽くす」

決意の声が会場に大きく響き渡った。(読売)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
62回目の原爆忌を迎えた長崎市で9日夜、犠牲者を悼むたいまつ行列があり、被爆によって頭部だけ残った「被爆マリア像」が初めて列に加わった。

マリア像は、爆心地から約500メートルの浦上天主堂で、かつては中央祭壇の最上部に置かれており、被爆から約2か月後、がれきの中から発見された。

天主堂で保管されてきたが、2005年、祭壇が復元されたのを機に60年ぶりに安置された。

信徒から、被爆の象徴であるマリア像と一緒に歩きたいと要望があり、担いで運ぶ「聖座」を製作され、参加が決まった。

この日は、約10人の信徒が担ぐ聖座に乗ったマリア像を先頭に、たいまつを手にした信徒や市民ら約1200人が天主堂を出発。平和公園までの600メートルを、平和への祈りをささげながら歩いた。(読売)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
日本映画社かが撮ったモノクロの画面に、天主堂前面の入り口だけ残して、それでもミサに集う極わずかの信者たち。彼らの心中と信仰をおもい、失った信者仲間のその多数の不在を見て、何時まで放心状態と悲観を離せなかっただろうか。