ロシアンブロック。そのクリスマス。
ウクライナは、どうなるのだろう。
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ロシアのプーチン大統領は5日、ショイグ国防相に対し、6日正午(日本時間同日午後6時)からウクライナ東・南部の前線全域で36時間の停戦に入るよう命じた。ロシア正教会のキリル総主教は東方正教のクリスマス(7日)に合わせて6日正午~8日午前0時(同6日午後6時~8日午前6時)に停戦するよう「全当事者」に要請しており、大統領府は「総主教の提案を考慮」したと説明した。
昨年2月に始まったウクライナ侵攻で、プーチン氏が停戦で具体的な動きを見せるのは初めて。
キリル総主教は公式サイトで声明を発出。「正教信徒が降誕祭(クリスマス)の前夜から当日の祈とうに参加できるようにするため」と述べた。ただ、ウクライナ側はロシア軍の再侵攻を防ごうと年末年始から攻撃を活発化させており、実現は不透明だ。
停戦の命令に先立ち、プーチン氏は「仲介役」であるトルコのエルドアン大統領と電話会談した。エルドアン氏は、ロシアによる「一方的な停戦の宣言」が和平に寄与すると強調。この後、ウクライナのゼレンスキー大統領とも電話会談しており「クリスマス停戦」に応じるよう促した可能性がある。(時事)
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ロシア大統領府によると、プーチン大統領は5日、ロシア正教のクリスマスに合わせ、侵略を続けるウクライナ東・南部の前線地域で、6日正午(日本時間6日午後6時)から36時間の停戦に入るようセルゲイ・ショイグ国防相に指示した。ウクライナ側にも応じるよう求めたが、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は強く反発した。
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自己が誤った時代錯誤による、最新の侵攻。その事実を、そして恐ろしい真実。それらが露国故か。露見、暴露されるを、隠蔽。正当化するが為。
— 更生間抵爺 (@B6e9aBrxydVhJY1) 2023年1月5日
かくも、トカゲの尻尾切り。何時まで、遡っての発言か。ここに至っては、キリスト教圏内、身内の細分化。そこでの、相対化。ギリギリが現況、感付いた者よ、
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更に、付け加えて置こう。あの当時、「日ソ中立条約」が破棄。その結果から波及した、もたらされた、数々が惨禍、悲劇の事件。その事例がひとつ。わたしも、戦後が製作の邦画で観た。現在は、埼玉県内。青葉園にある、地蔵尊。日本赤十字看護婦の、敵軍による戦時犯罪、その被害。その同様、今何処で
— 更生間抵爺 (@B6e9aBrxydVhJY1) 2023年1月5日
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《祖国遙か 青葉慈蔵尊物語》
この物語の主人公は、掘喜身子(ほり きみこ)さんといいます。
彼女は、幼い頃から病人を看護することが好きで、女学校を出たあと、昭和11(1936)年に満州に渡り、満州赤十字看護婦養成所に入所して、甲種看護婦三年の過程を修めたあと、郷里の樺太・知取(シリトリ)に帰って樺太庁立病院の看護婦をしていました。
昭和14(1939)年の春、彼女は医者である堀正次さんと結婚するのですが、結婚してちょうど1年目の春、堀喜身子さんに召集令状が届いています。
看護婦として従軍せよ、という令状です。
彼女は令状を受けた一週間後に、単身で任地である香港第一救護所に出発しました。
まもなく、彼女は任地が上海に移り、ついで満州国牡丹江から、さらにソ連との国境に近い虎林(こりん)の野戦病院に48名の同僚とともに異動しています。出征して6か月目のことでした。
虎林の野戦病院には、医師である夫の正次も令状を受けてやってきました。
このあたり、当時の陸軍は実に人情的です。ひとりひとりの家庭環境に配慮しながら人事を行っていたのです。
ご夫婦は、そこで医師と看護婦として、毎日前線から送られてくる傷病兵の治療をして過ごしていました。
そしてこの時期に、長男静夫(しずお)、長女槇子(まきこ)の二人の子宝にも恵まれています。
昭和20(1945)年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を破って、突然満州に攻め込んできました。
戦況は激しいものでした。
爆撃の危険から、虎林の野戦病院では、患者全員を長春に移すことに決定しました。
けれど患者のうち70余名は、伝染病の重患なので一緒に連れて行くことができません。
野戦病院では、軍医中尉であった夫の堀正次と、他に2名の軍医、それと5名の兵隊さんを残して、ある程度元気な者のみ、長春に向かわせることにしました。
喜身子さんは、夫からもらった将校用の水筒を肩に、長春に向かいました。
二人は、これが今生の別れとなりました。
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虎林を出発した病院の医師、看護婦、患者たちの一行は、牡丹江を過ぎ、ハルピンを通過して、一週間目の8月15日に、ようやく長春に到着し、そこで終戦の玉音放送を聞いています。
けれどその長春も、ほどなくしてソ連軍に占領されました。
当時、ソ連軍に占領された町がどのようだったかは、
≪奉天駅前事件≫( http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1100.html)をご参照ください。
長春がソ連軍に占領された後、掘喜身子さんは、将校夫人や子供たちと一緒に、女ばかり76名で合宿所に入れられました。
そこでは身上調査を受けました。
調査の結果、掘喜身子さん以下虎林の野戦病院から来た看護婦34名は、長春第八病院に勤務せよとの命令を受けました。
月給はひとり200円です。
彼女たち34名の看護婦は、その給料をみんなでまるごと出し合って、一緒に収容されている将校家族を養う費用にしたそうです。
ここでは、辛い時もうれしい時も、みんなが等しく皇国臣民であるという価値観が共有されていたのです。
けれど、長春の物価はあがる一方でした。
生活は日に日に苦しくなりました。
堀喜美子さんも、次第に体がガリガリに痩せ細って行きました。
昭和21(1946)年春、第八病院の婦長をしていた堀喜身子さんのもとに、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所から、一通の命令書が来ました。
内容は、
看護婦の応援を要請。
期間は一か月
月給300円
というものでした。
生活が苦しい中、月給300円は魅力です。
それに、いくらソ連軍とはいえ、世界各国で公認されている赤十字を背負う看護婦に間違った扱いなどすることはないだろうと思われました。
しかもソ連陸軍が発令した「公文書」としての「命令書」です。
婦長をしていた堀喜美子さんは、一抹の不安はあったけれど、引率者である平尾勉軍医と相談して、看護婦の中でも、もっともしっかり者だった大島花枝、やはりしっかり者の細川たか子、大塚てる、の3名の看護婦を選びました。
出発の日、堀喜美子さんは、三人に、
「決して無理はしないように」と言い聞かせたそうです。
大島花江看護婦は、元気いっぱいの笑顔で、
「心配はいりません。敗戦国であろうと、世界の赤十字を背負う看護婦として、堂々と働いてきます!」と答えてくれました。
「大島さん、細井さんと大塚さんのこともお願いね」と気遣う婦長に、
細井、大塚両名も、
「あら、大塚さんばっかり。私たちはいつまでたっても一人前じゃないようだわ」
「ほんとうに、失礼しちゃうわね」
と明るく冗談を言い合い、みんなで明るく笑いあいました。
堀喜美子さんは、出発する3名に、きちんと制服(看護婦の白衣の他に軍看護婦としての制服があった)を着せました。
そして、制服の右腕に、しっかりと「赤十字の腕章」を付けさせました。
誰がどこからどうみても、赤十字の看護婦であることがひとめでわかるようにしたのです。
こうして三名の看護婦は、元気に一か月の別れを告げて出かけて行きました。
ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に到着した三人は、それぞれ離れた場所に別々に部屋を与えられました。
部屋は個室で、ベットまで付いていたそうです。
大部屋暮らしだった大島看護婦たちにとって、個室はまさに夢のような環境でした。
*****
やがて一か月が経過しようとしたとき、同じ病院から、また3名の追加の命令書がきました。
堀喜美子婦長は、荒川静子、三戸はるみ、沢田八重の3名を、第二回の後続として、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に送りだしました。
もうまもなく、最初の三名が交代して帰ってくる。
誰もがそう思っていました。
ところが帰ってこないのです。
さらに一か月が経過しました。
すると、また3名の追加の命令が、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所からもたらされました。
堀婦長は、心配になりました。
引率者の平尾軍医に、命令を断るよう談判しました。
一か月という約束で看護婦を送っているのです。
「最初の3名が行ってから、もう3か月経過しています。2回目の看護婦が行ってからも、2か月です。その間、誰も帰してもらっていません。向こうが約束を反故にしているのです。そんな約束も守れないようなところに、大切な部下を送ることなんてできません。しかも6名とも、行ったきり音信不通です。おかしいではないですか?」
けれど相手はソ連軍です。
命令に背けば、医師や看護婦だけでなく、患者たちまで全員が殺されてしまう危険があります。
病院としては、命令に背くことはできない。
みんなで相談しあい、やむなく井出きみ子、澤本かなえ、後藤よし子の3名を送り出しました。
けれど、仏の顔も三度までといいます。
4度目の命令がきたら、こんどこそ絶対に拒否してやろう。
先に行った者たちが心配でたまらない堀婦長がそう思っている矢先、一か月後、誰ひとり帰らないまま、4度目の命令が来たのです。
今度もまた3名の看護婦を出せ、というものです。
なんという厚顔無恥!
残る看護婦は、婦長の堀喜美子の他、22名です。
その中から、4度目の3名を選出しなければならない。
堀婦長の心の中には、暗澹とした不安がひろがりました。
その日の夜、堀婦長は、次に向かう3名を呼びました。
明後日出発すること、先に行った看護婦たちに手紙で状況を報告するように話してもらいたい旨を、3名に伝えました。
その日の夜のことです。
すっかり夜も更けたころ、病院のドアをたたく音がしました。
(こんな時間に何事だろう・・・・)
堀婦長が玄関の戸を開けました。
小さく明けた戸口から、髪を振り乱し、全身血まみれになった人影が、「婦長・・・」とつぶやき、ドサリと倒れこんできました。
見れば、その人影は、なんと最初に出発した大島花枝看護婦でした。
たいへんな重体です。
もはや意識さえ朦朧(もうろう)としています。
大島看護婦は、全身11か所に盲貫銃創と貫通銃創を追っていました。
裸足の足は血だらけでした。
全身に、鉄条網を越えたときにできたと思われる無数の引き裂き傷がありました。
脈拍にも結滞があります。
着ている服もボロボロです。
「なにがあったのか」
堀婦長は、とっさに「そうだ。こうまでしてここに来なければならなかったのには、理由があるに違いない。その理由を聞かなければ」と思い立ちました。
そして、
「花江さん!、大島さん! 目を開けて!」と、大声で大島看護婦を揺り動かしました。
重体の患者です。
ふつうなら、揺り動かすなんてことはしません。
他の看護婦が「婦長! そんなことをしたら花江さんが!」と悲鳴をあげました。
けれど堀婦長は毅然として言いました。
「あなたたちは黙って! 花江さんは助からない。
花江さんの死を無駄にしてはいけない!」
大島看護婦が目を覚ましました。
そして語りました。
「婦長。私たちはソ連軍の病院に看護婦として頼まれて行った筈ですのに、あちらでは看護婦の仕事をさせられているのではありません。行ったその日から、ソ連軍将校の慰みものにされてしまいました。
半日たらずで私たちは半狂乱になってしまいました。
約束が違う!と泣いても叫んでも、ぶっても蹴っても、野獣のような相手に通じません。
泣き疲れて寝入り、新しい相手にまた犯されて暴れ、その繰り返しが来る日も来る日も続きました。
食事をした覚えもなく、何日目だったか、空腹に目を覚まし、枕元に置かれていたパンにかじりつき、そこではじめて事の重大さに気が付き・・
それからひとりで泣きました。
涙があとからあとから続き、自分の犯された体を見ては、また悔しくて泣きました。
たったひとりの部屋で、母の名を呼び、どうせ届かないと知りながら、助けを求めて叫び続けました。
そしてどんなにしても、どうにもならないことがわかってきたのです。
やがておぼろげながら、一緒に来た二人も同じようにされていることもわかりました。
ほとんど毎晩のように三人か四人の赤毛の大男にもてあそばれながら、身の不運に泣きました。
逃げようとは何度も思い、しかもその都度手ひどい仕打ちにあい、どうにもならないことがわかりました。
記憶が次第に薄れ、時の経過も定かではなくなった頃、赤毛の鬼たちの言動で、第八病院の看護婦の同僚たちが次々と送られてきていることを知って、無性に腹が立ち、同時に我にかえりました。
これは大変なことになる。
なんとかしなければ、みんなが赤鬼の生贄になる。
そんなことを許してはならない。
そうだ、たとえ殺されても、絶対に逃げ帰って婦長さんにひとこと知らせてあげなければ・・・
赤鬼に汚された体にも、命にもいまさら何の未練もありませんでした。
私は、二重三重の歩哨の目を逃れ、最後お鉄条網の下を、鉄の針で服が破れ、肉が引き裂かれる痛みを感じながら潜り抜けて、逃げました。
後ろでソ連兵の叫び声と銃の音を聞きながら、無我夢中で逃げてきました。
婦長さん。
もう、ひとを送ってはなりません・・・・」
そこまで話して大島花江看護婦は、こときれました。
なんという強靭な意志の持ち主なのでしょう。
蜂の巣のようにされながら、この事実を伝えようとする一心だけで、まさに使命感だけで、彼女はここまで逃げてきたのです。
病室内に、
「はなえさん・・・」
「大島さん・・・」という看護婦たちの涙の声がこだましました。
こうして昭和21(1946)年6月19日午後10時15分、大島花江看護婦は、堀婦長の腕の中で息をひきとりました。
大島看護婦の行動は、どんなに勇敢な軍人にも負けない、鬼神も避ける命をかけた行動です。
大島看護婦の頬は、婦長や同僚の仲間たちの涙で濡れました。
あまりにも突然の彼女の死を、みんなが悼みました。
翌日の日曜日の午後、遺体は、満州のしきたりにならって、土葬で手厚く葬りました。
そして彼女の髪の毛と爪を、お骨代わりに箱に納め、彼女にとってはなつかしい三階の看護婦室に安置してあげました。
花を添え、水をあげ、その日の夜、一同で午前0時ごろまで思い出話に花をさかせました。
すべて、懐かしくて楽しかった内地の話ばかりだったそうです。
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翌朝、堀婦長が、出勤時刻の9時少し前に病院の看護婦室に行くと、そこに病院の事務局長の張(チャン)さんがいました。張さんは、日本の陸軍士官学校を卒業した人です。
張さんは、ひどく怒っていました。
看護婦たちが、だれも出勤していないからです。
こんなことは前代未聞です。
「変ですね~」と最初、気楽に答えた堀婦長は、その瞬間、はっと気が付きました。
無我夢中で3階の看護婦たちの宿所に走りました。
いつもなら、若い女性たちばかりでさわがしい宿所です。
それが、今朝は、シーンと静まり返っています。
もの音一つしないのです。
堀婦長の胸に、ズシリと重たいものがのしかかりました。
宿所の戸を開けました。
お線香の匂いがただよっていました。
内側の障子は閉まっています。
(なにが起こっているの?)
おそるおそる障子を開けました。
部屋の中央に、小さなテーブルがありました。
その小さなテーブルの上には、大島看護婦の遺品と花とお線香、そして白い封筒が置かれていました。
そして、その周囲に・・・
きれいに並んだ、22名の看護婦たちの遺体が横たわっていました。
机の上の白い封筒は、彼女たちの遺書でした。
【遺書】
「二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑のことと、深くお詫びを申し上げます。
私たちは、敗れたとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます。
たとえ生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止まり、日本が再びこの地に帰ってくる時、ご案内をいたします。
その意味からも、私どものなきがらは、土葬にして、この満州の土にしてください。」
遺書の終わりには、22名の名前が、それぞれの手で記されていました。
遺体は、制服制帽の正装姿です。
顔には薄化粧がほどこされていました。
両ひざはしっかりと結ばれ、一糸乱れぬ姿でした。
その中で、たったひとり、井上つるみの姿だけは乱れていました。
26歳で最年長だった彼女は、おそらく全員の遺志をまとめ、衣服姿勢を確かめ、全員の死を見届けた上で、最後に青酸カリを飲んだと推定できました。
畳を爪でひっかいた跡にも、顔の表情にも、それは明らかでした。
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現場に、通訳を連れたソ連軍の二人の将校と二人の医師がやってきて、現場検証が行われました。
堀婦長は逮捕されてもいい覚悟で、国際的にも認められている赤十字の看護婦に行った非人道的行為を非難しました。
事のてんまつを訴えました。
最後は、泣き崩れ、言葉にさえなりませんでした。
ソ連の将校たちは無言のままでしたが、事態の重大さは、わかったようでした。
この22名の集団自決による抗議に、ソ連軍当局も衝撃を受けたらしく、翌日、
■ソ連の命令として伝えられることで納得のいかないことがあれば、24時間以内にゲーペーウー(ソ連の秘密警察)に必ず問い合わせすること。
■日本の女性とソ連兵が、ジープあるいはその他の車に同乗してはならない。
というお触れが、日本人の宿舎にもまわってきました。
22名は、死ぬ前に全員、身辺をきれいに整理整頓していました。
ちなみに、彼女たちが「土葬にしてほしい」と遺言したのは、婦長や引率の平尾軍医などにお金がないことを気遣ってのことでもありました。
「それではあまりに22名の看護婦たちがかわいそうだ。火葬にしたうえで分骨し、故郷の両親に届けれあげれるようにしようじゃないですか」と、張氏が、当時ひとり千円もする火葬代を出してくれました。
日本が負けて立場は変わっても、陸士出身の張さんの温情は変わらなかったのです。
張さんは「せめてこれまで朝夕親しく一緒に働いた人たちへの、これがささやかな供養ですから」と述べてくれました。
こうして22名の骨壺がならび、初七日、四十九日の法要もお経を唱えて手厚く執り行われました。
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その四十九日のことです。
張さんが、亡くなられた看護婦さんたちに、せめてお饅頭でも作ってあげたら?と饅頭を作る材料費を出してくれました。
堀婦長は、張春のミナカイという市場に出かけました。
ミナカイは当時、東京でいえば銀座のような、張春一番の繁華街でした。
(といっても、闇市のようなバラック市です)
堀婦長は、そのミナカイで、ふとしたことから、噂話を耳にしました。
長春第八病院に向かった9名の看護婦のうち、亡くなった大島花江を除く8人が生きている、というのです。
場所は、張春市内にあるミナカイデパート跡で、その地下のダンスホールに、ソ連陸軍病院第二救護所に送られた8名が生きてダンサーをしている、というのです。
堀婦長は、矢も楯もたまらず、その足でダンスホールに駈けました。
ダンスホールは、中は十畳ほどの広場になっていて、客はソ連人です。
働いているのはソ連人と中国人で、ダンサーは日本人、朝鮮人、中国人でした。
入口から中に入ろうとすると、ソ連人がそこにいて、入室を拒みました。
けれどどうしても彼女たちが気がかりで会いたいと思う堀婦長の迫力に圧倒されたのでしょう。
その入り口にいたソ連人は、隅にある小さな部屋で待っていろ、といいました。
部屋にひとり待っていると、ガチャリと音がして、扉が開きました。
そして肌もあらわな派手なパーティドレスを着た女性たちが部屋に入ってきました。
「ふ、婦長・・・」
「婦長さん!!」
「みんな・・・」
堀婦長にも、彼女たちにも言葉はありませんでした。
互いと会うことができた。それだけで涙があふれました。
しばらくして落ち着くと、堀婦長は言いました。
「大島さんがね・・・」
「知っています。同僚たち22名が集団自決したことも聞いています。」
「だったら、こんなところにいないで、早く帰ってきなさい!!」
「・・・・」
「あなた達の気持ちは、痛いほどわかるわ。だけど帰ってきてくれなかったら、救いようがないじゃないの」
8名の看護婦たちは、その婦長の言葉に、うつむいて黙ってしまいました。
堀婦長は、自分の言葉があまりに一方的にすぎたのかと思いました。
けれど、彼女たちからすれば、そんな単純なものではなかったのです。
眉を細く引き、口紅を赤くし、ひとりひとりの顔は、以前の看護婦に違いありません。
けれど8人には、まるで生気が感じられませんでした。
それどころか、目をそらして堀婦長の目から逃れようとさえしていました。
堀婦長は心を鬼にして言いました。
「どうして黙っているの?どうして返事をしないの?
そう、あなた達は、そういうことが好きでやっているのね。」
そう突き放したとき、ひとりが答えました。
「婦長さん、そんなにあたしたちのことを思っていてくださるのなら、お話します。
私たちは、ソ連軍の病院に行ったその日から、毎晩7、8人のソ連の将校に犯されたのです。
そして気づいてみたら、梅毒にかかっていたのです。
私たちも看護婦です。
いまではそれが、だいぶ悪くなっているのがわかります。
もう、私たちはダメなのです。
もう、みなさんのところに帰っても仕方がないのです。
仮に、幸運に恵まれて日本に帰れる日が来たとしても、こんな体では日本の土は踏めません。
この性病がどれほど恐ろしいものか、十二分に知っています。
だから、私たちは、梅毒をうつしたソ連人に、逆にうつして復讐をしているのです。
今はもう、歩くのにも痛みを感じるようになりました。
ですからひとりでも多くのソ連人に移してやるつもりで頑張っている・・・」
もう何も受け付けない。
もう何を言っても、彼女たちには通じない。
彼女たちを覆っているのは、完全な孤独と排他と虚無だけでした。
彼女たちのその言葉を聞いたとき、堀婦長は流れる涙で、何も言えなくなってしまいました。
自分が人選したのです。
責任は自分にある。
彼女たちが負った傷の深さ、過酷さを思えば、彼女たちが選択したことに否定や肯定をするどころか、何の助言さえもしてあげれない。
ただただ自分の無力さに悔し涙が止まらないまま、この日、気まずい雰囲気のまま部屋を後にしたのでした。
「けれど」と堀婦長は思いました。
このままでは済まされない!
なんとしても彼女たちを助け出すんだ!
堀婦長は、その日の夜、ひっそりと静まり返って誰もいなくなった薬剤室に入り、梅毒の薬を持ち出しました。
そして翌日、ふたたびダンスホールへと向かいました。
通されたのは、昨日の部屋です。
女ばかり9人が、そこに集まりました。
婦長は、せいいっぱい元気よく明るく彼女たちに声をかけました。
「みんな!今日はお薬を持ってきてあげたわ。みんなの分、たくさん持ってきたから!
あなたたちは、まだ若いのよ。
復讐する気持ちはわかるけれど、それでは際限がないじゃない!
それよりも、この薬を飲んで、一日も早く体を治してちょうだい。
そしてね、気持ちを立て直して、生きることを目標に努力しようよ!」
「婦長さんのお心はありがたいと思います。
だけど婦長さん。
そのお薬は、日本人が作ったものです。
そんな貴重なものは、私たちには使えません。
私たちのことは、もういいんです。
本当に、もういいんです・・・・」
「そんなことを言ってはダメ!
お願いだからあきらめないで!
お薬、ここに置いていくわ。
それじゃ、帰るわね・・・」
薬を置いて帰ろうとしかけた堀婦長に、ひとりが立ち上がりました。
「婦長さん。そんなに私たちの気持ちがわからないなら、わかるようにしてあげます。」
彼女の中のひとりが、そう言ってスカートをたくしあげ、自分の性器を露出しました。
梅毒は、性器全体に水泡ができます。
そしてそこがただれて膿が出ます。
さらに尿道口にも膿が出て、排尿困難、歩行困難が起こり、性器が腐ります。
広げた足の間には、典型的な梅毒の症状がありました。
それは、あまりにむごい末期の姿でした。
もはや手遅れかもしれない。
けれど、病気は弱気になったら負けです。
堀婦長は、きっぱりと彼女たちに言いました。
「この程度なら、時間はかかるけど、必ず治ります!!
根気よ! 薬は十分あるのだから、あなた達も、絶対に良くなるんだという強い気持ちで治療するのっ! いいわね!」
「治らない、治りっこないなんて、勝手な思い込みはやめなさい!
もう商売なんかしてはダメよ。
良くなるのよ!
毎日お互いに声をかけあって、手抜きをしないで治療するの。いいわね!!」
こうして彼女たちは、わずかでも「治る」という希望を持ちました。
そして治療を受けると約束してくれたのです。
*****
薬の調達は容易ではありませんでした。
ただでさえ、日本人の医師や看護婦に扱える量は少ないのです。
それでも堀婦長は、彼女たちを助けたい一心でした。
薬をすこしずつ確保し、貯めた薬が一定量になる都度、彼女たちのもとに、お饅頭と一緒に、通いました。
お饅頭と、堀婦長の誠意、そして日、一日と軽くなる体に、彼女たちの目にも少しずつ光が宿りはじめました。
このような彼女たちとの関わり合いは、帰国命令の出る昭和23年まで続きました。
そしてまる2年越しの交流の中で、堀婦長は、彼女たちがひどい仕打ちを受ける以前よりも、彼女たちにたいしてより深い愛情を持つようになっていました。
「一緒に日本に帰ろうね」
その言葉を、彼女たちにどれほどかけたでしょう。
けれど、敗戦の混乱が続く日本に帰ったとしても、楽な生活など待っているはずはありません。
それでもみんなと仲良く、苦労をわかちあい、助け合って生きていくんだ。
みんな、私が面倒みてあげるんだ。
堀婦長は、そう固く決心していました。
*****