かいふう

近未来への展望や、如何に。

と、{判例主義}という.その1

判例が、その記録が、後の裁判に及ぼすその重大さを承知しているからこそ、検察官は原告にそれを告げ、本日まで共に闘い、この法廷に会したのであろう。
7年は長い。事件に巻き込まれなければ、長女のピッカピカの一年生の記念写真を、家族3人でアルバム開けていただろう。
未だ、闘うのだ、この夫は。それは、彼の意思ではなく、この国の最高裁の判断なのだ。

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先日の某TVでは、ドストエフスキーの「罪と罰」を読んで、その主人公に投影させて、自分の犯罪を正当化させている心境が垣間見えた。しかし、小説では、金貸しの老婆と偶然居合わせたその妹?ではなかったか。土台無理な設定だし、余りに乖離している。自分の頭に一瞬過ぎった、それが、今回の某TVでは披瀝された。被告に面談をした仏教の僧侶の口から、なんと[聖書]を面会時に彼が携えていた、というのである。
人の生死には、宗教がかかわる。葬式という儀式が要るから。で、加害者が無宗教でも構わないだろうが、被害者に対して、となると宗教が無くては困る、という訳らしい。
自称クリスチャンにとって、[聖書]を介在させて来た加害者、{差し戻し}の苦労を今また背負う被害者家族の夫、この対決の構図、及びそれを援護する弁護側と検察側。これは、[オウム裁判]と明確に違って、個人として単純にわかりやすい、難事件だろう。
判例の、改進なのか否か、あの連続射殺魔事件から年月を経て、しかも若い母と乳児という2人の被害者、そして独り残された夫の彼の責務、と節目の決断。
非常に或る意味、近くに感じている。それは、[聖書]を読む罪人が非常な短期間にどんな変貌を遂げるか、自分は否定できないし、たとえそれが遂げられても、母子を両手に夫はこの世で抱けないという生活、それに変わりは無いからだ。
無論、皆と同じく、弥生と夕夏、2人がすでに天国にある、とこれからも闘い続ける夫洋さんとおもう。しかし、位置と距離が違う。
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[母子殺害判決]「特別扱いできない少年事件」

極刑を宣告しない限り、正義に反し、国民の理解も被害者遺族の納得も得られない――。最高裁はそう考えたのだろう。

しかし、どちらの判決も、被告が犯行時に少年だったことを重視した。無期懲役が相当と結論づけたのは、「矯正教育による改善更生の可能性がある」と考えたからだ。最高裁が異議を唱えたのは、まさにこの点だった。

「無期はほぼキマリでして、7年そこそこで地上にひょっこり芽を出す…」。被告は1、2審の公判中、不謹慎な内容の何通もの手紙を拘置所仲間に送っていた。結婚後2年足らずで、妻子を殺された夫は、被告が社会復帰した場合には、自ら報復すると語っていた。

少年事件に対する社会の目は、ここ数年、厳しさを増している。一方、2004年12月に犯罪被害者基本法が成立するなど、被害者遺族の処罰感情がより重視されるようになってきた。

最高裁は、被告の反省のない言動に加え、こうした社会状況の変化も視野に入れて、「被告に酌量すべき事情はない」と判断したとみられる。

最高裁は昨年、刑事裁判の量刑に関する意識調査を実施した。被告が少年だった場合にどう配慮するかについて、裁判官の90%が刑を軽くすると回答したのに対し、国民は50%が「重くも軽くもしない」、25%が「重くする」と答えた。

今回、最高裁が事件を広島高裁に差し戻したことに対し、「なぜ、自ら死刑を宣告しなかったのか」という不満や疑問の声が出ている。しかし、最高裁は事実審理ができず、検察側が死刑相当と上告した無期懲役事件で、自ら量刑を変更した例は過去にない。

差し戻し審を必要以上に長引かせるべきでない。広島高裁は速やかな審理に努めてもらいたい。(2006年6月23日読売新聞・社説)
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