かいふう

近未来への展望や、如何に。

独裁者の刑死。

kaihuuinternet2006-12-31

【カイロ=長谷川由紀】イラク中部ドゥジャイルのイスラムシーア派住民148人を殺害したとして、人道に対する罪で死刑が確定していた同国元大統領サダム・フセイン(69)に対する絞首刑が30日午前6時(日本時間同日正午)ごろ執行された。

人道に対する罪で元国家元首が処刑されたのは初めて。34年にわたり同国を強権支配し、2003年のイラク戦争で政権の座を追われた独裁者フセインは、自国民の手で裁かれ、「犯罪者」として刑死した。

処刑は、バグダッドシーア派地区カジミヤにある旧軍情報機関本部の建物内で行われた。地元メディアによると、処刑にはイラク高等法廷の判事や政府当局者ら7人が立ち会った。立ち会った政府当局者によると、フセインは首にロープをかけられる直前に、「神は偉大なり。国家(イラク)は勝利する。パレスチナはアラブのものだ」と叫んだ。

判決確定から4日後という迅速な処刑で、フセインを支持する旧バース党関係者やスンニ派武装勢力が、現政権で主流のシーア派クルド人への反発を強め、治安がさらに悪化するとの指摘もある。マリキ首相は処刑後、声明を出し、「独裁復活をはかるばかげた試みはこれで終わった。闇の歴史に区切りをつけ、ともに国家を再建しよう」とフセイン支持勢力に呼びかけ、宗派や民族対立の解消に向けた国民融和の実現を目指し、政治プロセスに参加するよう訴えた。(2006年12月31日読売新聞)
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フセイン処刑]「憎悪の悪循環をどう断ち切るか」

政治色が濃い性急な死刑執行ではなかったか。国民融和が求められるイラク再建へ、今後どのような影響を及ぼすか、見極める必要がある。

「人道に対する罪」で死刑が確定していたイラクの元大統領サダム・フセインに対する絞首刑が執行された。イラク高等法廷の上訴審で、死刑が確定してわずか4日後の執行だった。

約30年間にわたりイラクを強権支配した元大統領は、イスラムシーア派クルド民族に対する苛烈(かれつ)な弾圧政策で、イラクの「安定」を維持してきた。一方、スンニ派国民にとっては、スンニ派権力の象徴とみなされてきた。

死刑執行は、現在、イラクで激化する宗派抗争をさらにあおりかねない。そのため、処刑のタイミングには、政治的判断の余地もある、との見方もあった。

だが、シーア派が主導するマリキ政権は、むしろ執行を急いだ。

治安改善に有効策を打ち出せないまま求心力を失いつつある政権浮揚のため、シーア派クルド民族の復讐(ふくしゅう)心に訴えようとしたのだろうか。現在の情勢は、フセイン個人の命運とは直接かかわりがないほど深刻化している、との判断も働いたのだろうか。

マリキ政権にとっては、大きな賭けであるのは間違いないだろう。

マリキ首相が最優先すべきは、国民和解の道を探ることだ。それなしには、政権維持は難しく、いかなる再建策も絵に描いた餅(もち)となる。

処刑後、シーア派住民が多い南部の町の市場で爆発事件が発生し、数十人が死傷した。処刑との関連は不明だが、マリキ政権は、スンニ派が元大統領の死を前面に押し出し、攻勢を強めてくることを覚悟しなければなるまい。

フセイン裁判は、イラク民主主義を試す機会でもあったが、政治指導者が介入するなど、多くの疑義が指摘された。法の支配を無視した元大統領に対し、選挙で選ばれた新生イラクの指導者は、民主的手続きを経た裁判の先例を残す好機を失った、との見方も出ている。

クルド人虐殺やクウェート侵攻など、フセイン政権による別の犯罪の真相解明が困難になった点も気がかりだ。

国際社会、とりわけ米国のイラク支援がますます大切だ。

ブッシュ大統領は、年明けにも新たなイラク政策を明らかにする予定だ。これまでのイラク政策のどこが間違っていたのか、なぜ機能しなかったのか、率直な検討が必要だろう。

柔軟で効果的な新政策を打ち出し、イラク支援の実を挙げることが重要だ。(2006年12月31日読売新聞・社説)
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独裁者が死んだ。しかも刑死である。すなわち公的な裁判によって、裁かれてのそれである。彼はその死刑の理由と罪状を聞いて、処刑された。
その罪状とは、自国民の某村民に対する暴虐的死への責任である。圧制をもって命令を下した罪である。
もうひとつ、国内クルド人に対する化学兵器散布による死、その件は未解決のままである。
祈りますよ。独裁者が取り除かれたのだから。平和への道程を遮断阻害した者が倒され、光が再び民衆に注がれるのが、より容易になったのだから。
今日は主の日であるから、恥ずかしがらずに祈ろう。アーメン