かいふう

近未来への展望や、如何に。

我が内なるパウロ的なるものとは.その1。

NHK教育「こころの時代」の再放送を観た。
太田愛人牧師の、パウロアテネからコリントなどへの布教活動の足跡と、その苦労話である。神殿を構えた歴史ある都市国家へ乗り込むのだから、大変な勇気と行動力である。想像してみたまえ。あの時代だよ。解説する牧師の言にあるように、船に乗り、陸地は徒歩で、しかも哲学の本拠地だから、マイクもなく、声も枯れんばかりの連日の弁舌。それもこれも、民衆に昨日までと違う、救い主の教えを説いて回るのだから。
そうか、プラトンが説きし愛はエロスだったのか。すると、プラトニック・ラブは如何なるものか。単純に精神的愛だと誤解してたことになる。しかし、キリスト教の愛がアガペなのだから、プラトニック・ラブなるものをもはや想起しなくともよい、ということだろうな。
コリントの方が、より布教しやすかった理由が、その地が風紀が乱れていたからだったとは。理屈っぽい学者が多数いるアテネよりか、容易だったろう。
アレクサンダー大王ディオゲネスの逸話も、再確認した。
西郷隆盛の『敬天愛人』も、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」も出て、よかったです。
異郷ギリシャの布教地で、「ローマ人への手紙」を著したのが功績だそうです。

                                                                                                                        • -

本日の番組に引かれたのは、自分の内にあるパウロ的なものについて、気付きたかったから。決して彼ほど知識などない。しかし、若い時、ある事柄については、貪欲に知識を得ようとした。それは映画というジャンルである。もっと分ければ、劇映画という分類のそれ。古今東西、名画から駄作から、人間がつくる劇映画なるもの、それは何か、それを眼球に取り入れようと。地球上のあらゆる歴史の出来事を劇映画という媒体を通して、そこに吸い込もうとしたのであれば、ホラー・コミック的でさえある。
それで、映画評論家にでもなれば、元取った、という話なんだけれど。それで本でも書いて出せた訳でもなく。ただの劇映画ファンだった、に終わった訳で。
いや、それで終わったんでは、情けないので、ここに、吐き出して少しでも気を鎮めようとしている。
あれは、親の金使ってした道楽なんだよ。そう結論出されるのが恐くて、なんとか正当化しようと、躍起になっている。
だから、山ほど観た劇映画とそれほどでない記録映画、その中から選りすぐりを伝えて、回心前のパウロ的負担を軽減し、かつそれらを観ること適わぬ人たちには懇意になりたい、と願う。
では、劇映画を、また記録映画を観ることは無駄なのか、道楽なのか、と詰問されると、答えは『否、否』である。
ならば銀幕のスターや、真似の出来ない演技力、それらを収納したフィルムやDVDが保管される意味がない。
だから、学校で学んだように、映画館でも学んだ、と解釈すべきだろう。それは、蓄えた知識も、表現された情緒も、いつか役立つという未来志向のものだろう。良識とはよく言ったものだ。
また、淀川長治氏の『良い映画を観ましょう』の言に至る。
故に、このブログ上で、映画の名作の数々を紹介しつつ、あわせて目の不自由な人びとの話題を載せても、なんら矛盾してないと、それだけは自負できる。
勘違いしないで欲しい。矛盾してないと、最低自負を述べただけであって、それ以上を保証した覚えはない。
たとえば、時代劇の名優が、信長、秀吉、そして家康を見事に演じ分けても、それらの劇映画と、沖縄の壕から火炎に焼け出されて眼前で息絶えた兵士の戦死の記録映画。どちらが重いか、それは観客の個人の判断、というより判断力が試されても、それ以上は問われないだろう。その名優もかってシベリアの凍土からやっと生還した元兵士かも知れぬ。自分の所属した部隊がどういう訳か、そっち方面に配属されただけの事かも知れぬ。
もはや劇映画を観なくとも死にはしない。だからといって、記録映画に勇敢な兵士の死を撮りたくて、戦争を起こす狂人もいないだろう。
狂人でなくとも戦争を起こすだろう人がいるなら、もはや映画館に足を運ばずに、そういう彼もしくは彼らを監視することに判断力を注ごう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
キリスト教が、彼が選別した12弟子と、直接肉眼で見ていない、しかもそれ以前はむしろ迫害した側にいたパウロの不屈でタフな地中海伝道が無かったなら、布教伝播叶わなかった。これは、否定できないことでしょう。
でも、迫害した者が大逆転して、敵から味方の総大将に変身してしまうのだから、そこが、キリスト教のその所以でしょうけれど。
パウロのようだ、とか、形容は想像するのだけれど、当の本人、後にも先にも、ひとりしか存在しませんでしたからね。
でも、たとえば、先のローマ法王ヨハネ・パウロ2世の名から、洗礼名などで、継承されていくのでしょうね。