かいふう

近未来への展望や、如何に。

然らば、クリスチャンの「峻別」とは。

教会会長と、牧師たる夫人と、3人だけの夜間の祈祷会で、{虚構の宗教}の質問をぶつけたことがある。もう、「ヨハネの黙示録」の要諦を解き明かしていただいて、後の日であった。
会長は答えた。『必要悪だ』
キリスト教をうたっていても、{虚構の宗教}ならば、それはこの教会に集うのに、必要悪、という訳らしい。
訳、というは、「復元 単立イエス・キリストの教会」の会員になった、のであれば、そう公言し、振舞うのがよい、ということなのだろう。
クリスチャンの分別とは、たとえば、仏教徒でなく、ヒンズー教徒でなく、イスラム教徒でなく、そしてユダヤ教徒でもない、ことであろう。
でも、イスラム教徒ととも、そしてユダヤ教徒ととも、重なる部分がある、ということであろう。
以前、奈良の都に、世界遺産登録前の法隆寺を訪ね、その山門前に休む駱駝色の法衣の高僧ひとりを見掛けたが、あれは今におもえば高野山の僧だったに相違ない。他宗といえども拝観見学に、修学旅行生徒らと差別はない。
また同時同じ都の「阿修羅像」を擁する、その寺の若き修行僧は、自分と拝観客に数ある仏像群の案内役として、坊主頭に長ズボンはブルージーンズ姿であった。それをとやかく言う心算はない。現代的であっていいのである。節約は徳であり、使い勝手がいい物はいいのであるからして。
その庭内では、地方観光客のおばさんグループのひとりに、『なに睨んでいるのよ』と、わが内なるパウロ的なるものを見透かされて、日常に自然と労働を共にしているであろう人たちの、だからこその恵みのパワーに畏れ入ったものだ。
高野山の高僧の孤独にも耐えられない、自然と格闘する仕事にも従事できない、弱い罪深い者だからこそ、叩いたキリスト教の門かも知れない。いや、かも知れない、ではもはや済まされない。
ならばクリスチャンの判別とは、簡単だが、自分には、プロテスタントか否か、それが判る、というものである。
カトリックの「福者」、「聖人」は、プロテスタントにはないものである。とても、マザー・テレサの真似は出来ない。そして、彼女の生涯は、今も万人の知るところである。
信教の自由、はゆえに個別のものである。信仰は、信教の教は教義のそれだろうから、その教会の教義たる書物が信じられなければ、そこから離れればよい。敬遠すれば、いいだけである。
{虚構の宗教}が上乗せで、2000年に及ぶキリスト教史と、その間の無数の殉教者の数を蔑ろにするならば、その事実を欠落させてもなんら意に介さぬならば、彼らは、カトリックでもプロテスタントでもない。何者か。それが問われるであろう。
問われて然るべきであり、必要とあれば問うのがクリスチャンの「峻別」であろう。
しかし、聖書には、「論争は避けよ」とあるから、そうするより、信者獲得に向ける。
だから、担いでいる神輿が違うのだから、ニアミスせぬよう、努めればよい。こちらが努めても、ニアミスしてきたら、それこそ遠慮なく、正当防衛で、『虚構の宗教、近づくな』と述べればよい。
会長の『必要悪だ』は、21世紀に突入して、もはや自分には、『虚構の宗教、近づくな』なのであろう。

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マタイ伝には、(読者よ、悟れ)という箇所がある。
かって、新大陸で脱税事件をして、刑務所に服役した者がいた。
その宗教法人は、「新約」の上に、もうひとつある、という。
だから、新約の中のマタイ伝の、(読者よ、悟れ)では、こちらも追求できない、のである。
アジアの、列島でない、ある局地的な民の、ある局地的な民による、ある局地的な民のための宗教法人、とみなしたほうが、
列島で60年前から、そして100年前からクリスチャンであった先人の徳に応えるものであろう。
それに目覚めたほうが、21世紀の光を浴びた、この列島の、平和を希求する民に相応しい生き方に、おもえてならない。
そのためには、誰が救い主か、自分で解答をださねばならない。それまでの労苦を無にせぬよう。
若い人に言いたい。無理な上乗せに跳びつくことはない。無駄な寄り道はしなくていい。
特に、大和撫子に言いたい。あなた方を守ろうとして、あなた方のお父さんやお母さんを守ろうとして、彼らは行ったのだから。それも祝言も挙げないで。或いはそのなかには、クリスチャンも居たのだから。
決して軽々しく、{虚構の宗教}に引っ掛からないでくれ給え。願うよ。
アーメン

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若い時、ノーベル賞で、第一次世界大戦にかかわる青年の本があるといい、と単純な理由で。もう、ホコリ除けの透明な外装紙の半ば朽ちて、それでも読んでくれなかった持ち主を、恨むかのように古いダンボールの底に、仕舞い込まれて。
最近、池澤夏樹さんが選んだ本の中に、彼の評で『若者が反抗する』内容だ、と。同じく選んだのに、石牟礼道子「苦界浄土」は、『憑依してる文章』だ、と。
チボー家の人々」は、位置付けとして、二つの世界大戦、その前半、戦争に引き裂かれた家族。歴史小説でしょう。未読なので、想像ですが。
それをもって、それに狩り出された桁違いの戦死者。彼らが空だ、地上だ、の近代兵器に、爆弾死したり、轢死させられたり、非業の死を遂げる。その、クリスチャンとしての殉教死。それに関心があります。
半世紀前のアジアのとある半島に発想された、{虚構の宗教}が否諾。
第一次世界大戦の欧州戦線の、数え切れない戦死者。その多数のクリスチャンとしての殉教死。それを欠落させているのではないか。
{虚構の宗教}の上乗せの傲慢は、そもそも、その間の歴史の連続性の欠如なのではないだろうか。
それに反駁する資料として、歴史小説たる「チボー家の人々」は、未だ読む作品としての価値を失ってない、とおもうのです。

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現在ユダヤ教徒は、メシアがすでに現れたのを認めてない。
現在キリスト教徒は、すでに現れたのを認めて、そうした。
そして、系譜から、イスラム教の枝分かれ、を知った。
『神は、死んだ者のそれではありません』
彼らにするに、追慕追悼はしても。だから、その宗教ごと、儀式や典礼が有るのでしょう