かいふう

近未来への展望や、如何に。

たとえば、理想主義と、ご都合主義。

金と、白金は違う。そして、金メッキも違う。
前二つは、レアメタルなんでしょう。しかし、金メッキは、所詮メッキでしかない。
人物にも、金メッキの人もいるだろう。
いぶし銀の白髪の老人でも、持てる真実に、輝いている人は、多く居る。
現に、数多く見掛けても来た。なんで、あんなに魅力的なんだろうと。
上手に生きてこられたことに感心しても、それはその人のもの。
秘訣を尋ねても、回答してくれるとは限らない。
すると、金メッキの輩と、いぶし銀の人、その違いが判別出来ない、こちらの眼力が逆に問われてしまう訳でしょう。

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理想主義を掲げても構わない。叫んでも、騒音条例に引っ掛からないならば、構わない。
その拠るところの理論があるのだろう。それに出会って、熱狂して、信奉しても、構わない。構わないだらけだ。叫ぶ本人ひとりが、それなら、構わない。
それが、本人も、ひとりは不安なので、共鳴者とか、賛同者とか探す。同意する複数に囲まれて、集団として落ち着く訳だ。

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ディケンズの「二都物語」、あれは、たしかロンドンとパリが舞台だった。
ご都合主義者の『二都合物語』。それは、たとえば、北東アジアのある半島の38度線を挟んだ、半島人の二都を舞台であったりする。都市名は言わぬが。
歴史を踏まえても、その半島に居住する者が、その二都を連想するは、他国の者でも、それをまた連想するであろう。それほどの混乱と紛争の土地であることは、ある程度は知れている。
しかし、この地球。あまた在る半島。衛星で俯瞰するまでもなく、アジアでも数ある半島。
そこでは、理想主義が変形して、たとえばカトリックプロテスタントでも無い、そういうものを、新世紀を越えて、引きずってしまった。
自らカトリックプロテスタントでも無いことを明言し、そこから発言してしまった。

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{感光メシア}でもなさそうだ。写真映りは、もはや動くフィルムまでも動員してる。
{観光メシア}でもなさそうだ。協会名からして、世界中を飛び回ってるらしい。
すると、残るは{韓光メシア}か。これなら、判る。地域限定。
しかし、これさえも、南に在る、カトリックプロテスタント諸教会からは除外される。
すると、さらに残るは、局地限定。

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その、カトリックプロテスタント諸教会からは除外される、局地限定の協会が、どう在るのか。
それが、カトリックプロテスタント諸教会から見れば、屋根裏部屋を建て増ししたのか、屋上にテントをか、どう見えるのだろう。
それが、屋根裏部屋だろうと、屋上にテントだろうと、ならば、新世紀を迎えて後、その窓に虚構カーテンを閉めたままか。テントには初めからその仕様ではなかったか。
それとも、その新世紀の光で正体が知れるのを、懼れるが故か。

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世紀が改まっての問題でないならば、そう、半島人の『二都合物語』。
北の金メッキ職人のご都合主義と、南の理想主義が変形局地限定{韓光メシア}。彼らが共同制作『二都合物語』。この星のほとんどの人々が、すでにそれらを見抜いて居るにもかかわらず、だ。
未だ、幕を降ろさないのか。
その野外装置の遮蔽された裏に、多くの同胞が路上で餓死を放置しようが、あるいは換気も無い暗い地下室に、多くの同胞を束縛し鎖に繋いで居るにもかかわらず、だ。
ひたすら、隠ぺいと先延ばし、を繰り返すのみである。
想うに、反吐と嘔吐だ。
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毎度述べるが、『盲信するだけの軽きくびき』で神輿を担ぐ、のがなんとも不可解ではある。すでに、不気味でさえあろう。
それらに無理心中させられたくもないし、かつ臭い芝居も観たくはない。
首が痛くなる前に、嗅覚が麻痺する前に、
ならば、それらを、血眼になっても監視する、あるいは青鬼になっても防御する、を止める訳にはいかんだろうに。
カトリックプロテスタント諸教会から見る者のひとり、として。
信教の自由における、正当防衛だ。  アーメン