かいふう

近未来への展望や、如何に。

主日

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   イエス

 

あるマティアからの、補足解説。

 

先日の、有神論にして、実存主義者の発言に、補足をして、他者からの不要な誤解。

及び見解の相違から生じる無用な論争の時間の浪費を避けたい、と思います。

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最近の過日。日本のプロテスタント諸派の、某教会でも。

マッテヤならぬ、マティアという呼称を拝見したので。

プロテスタントカトリックの「共同訳」も既にありますので。

そこは、ならば。ここでも、マティアを使用しても、差し支えなかろう。

従いまして。そうすることにしました。悪しからず。

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再度、掲載ですが。

その人が、世紀末。並びに新世紀の歓迎の出会う。それは、運命でしょう。

100年に1度の、会見。

反省と、そして祝福とで迎えたい。誰しも、おもう事であります。

クリスチャンの端くれ、と言った以上。現在の有り様。

古代ギリシャの哲学者の弁明。『悪法も法なり』で自ら毒杯あおって、ならば弟子は。そういう師匠が無念を、書物で後世に伝えなければ。国家が法治で、悪法が賢者を失望が果て。国家が、国民にとっての財宝、賢者を失う。このままでは、国家は悪法を抱えたまま、滅びる。善なる法は何時施行されるや。

前世紀まで荒れ狂った無神論過激派の延命を許されたが故の弁解。

それらではない。どうにか、辿り着いた者として。

私的弁護。これは、せぬ訳にはいかない。しよう。

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クリスチャンであっても。それへの、求道者であっても。いや、異教徒でさえも。

それが、西暦の意味。

先日、批評した。かって、接近し。あるいは受験科目から調べもし。向こうから訪ねて来もし。

そして、「大東亜戦争」を、「太平洋戦争」と呼ぶ対岸の大陸が幌馬車を連ねての教派。

そのそれぞれが、その教会史を持ってる訳ですから。

こちらも、聞く耳は、例えば三重苦の彼女を思わずとも。持ってる訳ですから。

性格が近い、キャッチャーになって。受け止めました次第です。

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それで。これも、半世紀に1度かな。オリ・パラリンピックを、パンデミックという世界規模の疫病厄難の中。どうにか、潜り抜け。歴史を送りました。

20年、経過です。

それで、もう。反論や批判の類。それも卒業して。少し穏やかに暮らしたい。

しかし、残る批評。これぐらいはしよう。

ささやかな決意です。

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では。補足解説に移ります。

『あとがき』に相当するもの。かも知れません。とにかく、整理整頓、区切りを着けましょう。

いいですか。批評ですよ。コメントでしかないです。

それでも。後からの彼らに、せめて、ヒントにでもなれば。

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かって。バイクも世代交代、ある訳ですから。ミニバイクを駆って。内陸部を、乗れない高速道路沿いに、北上。眼の前に、平たんな耕地が開けました。たった1軒、収穫を終えたらしい、畑に耕運機を掛けたばかりの、土地を見たのです。その環境は、都市部で、20世紀の東京オリンピックをカラーテレビで、商店街の電気店頭で視た少年には。その広い土の中。その所有者らしき1軒家の、奥行き数百メートルはあるであろう。その家の郵便ポストが、走る先に、まるで鳥籠のように、1本のポールに支えられて、ある。過ぎる際、その口に差してあるが、ある教会の手帳大のチラシ。

バイクの旅行者、すなわち私は、それをどうも誤解したらしい。既に、その教会員であるから、ポストにチラシが挟まれてあったのだろうと。

しかし、よくよく思うに。それは、未信者宅に配布された分ではなかったか。

走る乗車から見るに。宅地、というより耕地の中央に佇む1軒家。そこまでたどり着く道は皆無。耕地に足跡残して、自宅の道路沿いポストに、郵便物を取りに来る風景。

 

単立と云えど。既に信者で在った者には。他教会の布教度、それを過大評価する傾向にあったようだ。

その教会、21世紀になっても。未だ、とんと。イエスが名を聞いた試しがない。

ならば、イエスが名を隠してあるのか。アンビリバボー!

どっちが、分家なんだ。日本人的解釈を誘う。

エスの名によって祈って来た者が、今更。日本人的解釈をも加味して、還暦過ぎて、足を運ぶだろうか。

再度、厳しく言うが。安全地帯をリクリエーションする、そうしか見えんのよ!

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