かいふう

近未来への展望や、如何に。

主日

『殉教』に至らない布教、のあり様、って何。

約半世紀前。モラトリアムという言葉が、流行りました。時を同じくして。『タテマエ』と「本音」、という対も、某教授の著作で載ってた。その教授の専門が、宗教哲学だったので。当時、過激な左と、諌死についていけない者。キリスト系に出口の光を、と。それが、『被せキムチ半島系』と察知するに至り。宗教は、『虚構』の上載せである訳ない。シラけた訳であります。

で、『でもしか』でもよい資格を。そして、学内で見かけたヘレン・ケラーになれない。障がい者を、意識して。それで、あったほうがいい。意識して、取った。

それを、習慣化。現在も、する時は、そう在ることにしてる。

それで、「実存」という言葉が、非常に使い勝手がいい。

千年の古都へのひとり旅。ある名刹の、重要文化財上の国宝級の仏像を安置した建物。入ると、美術品を前に仕切りがあって。警察官か警備員かの監視。それ以外に、観光客担当らしい、若い修行僧も立ち会ってる。驚いたは、彼の衣服。Tシャツかは覚えないが。何と、南都、もとへ。ライトブルーのGパン。年齢にも依るけど。それを身に付けてる彼に、無駄がない。仏教は寛容です。弘法大師は、尚。活仏、生き仏は、即身仏

それで、そんな彼、どうしてるかな。その寺院から出て。土産物屋が並ぶ地元商店街。歩くと、途中奥まった所に、キリスト教の看板も。

それで、異教徒の私は、勝手な想像。「坊さんかんざし買うを見た♪」じゃないけど。

若い彼。使い走りで、商店街の老舗。ひとり娘の婿養子、イケメンを見染められて。

今じゃ、その彼の愛娘が、夏休みに店番。あってもいいよな。異教徒問いません。ひとつの幸福な家庭が生まれるならば。

ちょっと、主旨から離れましたけど。かと思えば。キリスト教内でも。『殉教』に至らない布教、のあり様。それを、露呈するか如き。そうとしか見えない。そういう状況を、ダラダラ。

私はそれを、枝分かれした。と、受け止めて居ます。

ですから。中田厚仁さんの殉職。

そして、香田証生さんが、殉教の、キリスト教基準です。