かいふう

近未来への展望や、如何に。

被爆体験者による国への提訴、は初。

長崎市に投下された原爆に遭いながら、被爆者援護法で「被爆者」と認められていない「被爆体験者」が、国を相手取り、被爆者健康手帳交付を求める訴訟を11月にも長崎地裁に起こすことがわかった。

被爆体験者による国への提訴は初めて。

長崎市は、東西を山に囲まれ、平野部が南北に細長い特徴があり、国は放射線の影響がある「被爆地域」を、爆心地から南北12キロ、東西7〜8キロと設定。半径12キロ以内で原爆に遭っていても、被爆地域外の人は「被爆体験者」とされる。

国は2002年から、心の傷が健康に影響していると認められる「被爆体験者」の医療費の一部を助成する医療給付事業を行っている。しかし、同法に基づく被爆者健康手帳の交付は認められておらず、健康管理手当、葬祭料などが支給される「被爆者」とは援護内容に差がある。

全国被爆体験者協議会によると、15人前後が第1陣原告となる見通し。(読売)
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少年の時、「マリアの首」という舞台をTVで見た。未だ、観るとか、視るとかの意識はない。
話の筋がわからない。子どもは、単純だし、戦争も知らないし、かってあったことさえ、まだ学校で詳しく教わっていないからである。
その表現の仕方を演劇といい、台本を戯曲という名称で呼ぶんだと。戯れの曲がりものにしては、内容が深刻だぞ。お姉さんが、何を売るというのだ。しかも、被爆という体験の身体で。
そこまで、舞台という、観客が居る前で、苦しい悲しいおもいを、全身で伝えることが出来るなら、それで生活出来るんだ。それが職業になるんだ。俳優とは、大した職業だ、と感心したものだった。
でも、それは、演じているんであって、それらしく生きているんであって、その人ではない。被爆者本人ではない。美人が、被爆の、たとえばケロイドの顔をメーキャップでこさえてみせても、ウソである。
ふーん、ウソでも美しければ、人はそれでも観る。観客として、金を払い、拍手を送るのだ。もう、顔にケロイドがある悲運の美しい女を、決して劇場以外に見ることはない、とそうおもいつつ。
自分は幸運なのだ。そう信じなければ、生きてなど行けぬ。ならば、その基準をどこで決めたのだ。何を対象にして。
その人が被爆することで、棄教しても、構わぬ。棄教しなくても、構わぬ。それは、自分の構う構わぬの問題ではなく、被爆者にならなかったから、そんな感慨を抱くのであって、不遜で済まされる。
ならば、被爆者になった。もとへ。被爆者にならされた人は、どうすべきなのか。なる前と、ならされた後と、生涯の無邪気な笑いの数が如何ほど減ったか、その損失利益を計算するだけに終始するのだろうか。しなくていい苦労だ、本来なら。そう、本来なら。その本来の快活な健康を、誰かがそれを補償しなくてはならぬ。誰が。
もはや少年でない者は、答えなくてはならない。
おそらく、国家であろうと。被爆者を、そのようにした、その戦争をした、責任を取るべきは国家であろう。他に見つけられないから。