かいふう

近未来への展望や、如何に。

旅先、電柱でも見た。「生命之光」を読んで.その8。

kaihuuinternet2008-05-25


2008年5月号の「生命之光」が配布を手にしたので、ここに紹介させていただく。この号は、手島郁郎創刊、講話 任された神のぶどう園、となっている。通算ナンバーがNo.667である。

表紙裏、

『主は心の砕けた者に近く、
たましいの悔いくずおれた者を
 救われる。            』
                       詩篇三四篇一八節

                                                                                                              • -

聖書講話には、マタイ伝から、任された神のぶどう園、聖霊の賜物をゆたかに顕す、という、マタイ伝二一章、を引いている。
その中で、当時プラハ大学の総長であったヤン・フスが、いわゆる旧教の腐敗に対して抗議して、結果火あぶりに処せられた史実を、取り上げている。
近年、かの「オルレアンの少女」が、火刑の後何百年を経て、その内において「聖人」に列せられたのは、周知の事実である。
しかし、こちらの火刑は、その外である。そして、この事件が、後のマルチン・ルターに続く、とある。
宗教は文化にあらず、という項目が載る。ここが、とても気になった。気になっていたから、指摘されて、考えてしまった訳です。
この中で、手島郁郎師は、ローマのバチカンにある、カトリックの絢爛たる殿堂を指して、一つの文化が実っているにすぎません、と言っている。強い口調だ。断言している、と解釈してよいだろう。
最近、高画質で色彩も微細な最新鋭のテレビで視る、ルネサンスの巨匠たちの数々の作品群は、不朽の名作の感嘆の賛辞をもって、観客たちを捉えて離さない。
たとえば、ダビィンチ「受胎告知」と「最期の晩餐」。そして、ミケランジェロピエタ」と「ダビィデ」。
美しいものを、そうでない、とそこまで、クリスチャンはひねくれないだろう。
人類共通の文化遺産だからこそ、拝観料を払えば、異邦人だろうと、異教徒だろうと、そこまでの旅行のリスクを含んで、実物を鑑賞できる。相互乗り入れ、観光名所、外貨獲得。皆が潤う約束事に、誰がケチつけようか。
かっての国内旅行した際の、「百済観音」も「弥勒菩薩」も「阿修羅」も、薬師寺東塔も、そして東寺五重塔も、美しい。留まりたい、とおもう魅力がある。
でも、それらは、創られたものであり、美術作品なのである。
癒されて、悠久にわずかなひと時を委ねても、帰らねばならぬ。
先人の逸品に励まされ、後押しされ、日常の生活に、彼らの精神と匠の技の熟練、その余韻を持ち返る。ありがたい、とおもうに間違いはない。

                                                                                                              • -

このあと、手島郁郎師は、当時日本に滞在していたカトリックの神父を、彼が研究対象として無教会主義をみてる事を、先ほど同様強い口調で、対応しています。
それはそうでしょう。明らかに、彼と、彼は、互いに、内と、外なのですから。そこから、発言しているのですから。
無教会主義は明確に、対カトリックプロテスタントなんですから。

                                                                                                                • -

この講話がなされたのは、一九六八年の盛夏で、この時点では、例の「ファティマ第三の秘密」の事件は起きて無く、したがって解明されもしなかった。
バチカンが、第二次世界大戦時のナチズムに対する服従、それへの全世界への公の謝罪、それを手島郁郎師が存命中に聞かれたか、知りませんが、少なくともこの時点、来るべき「ファティマ第三の秘密」が、地政学的にもバチカンが位置する欧州全体を主とするカトリックの、未決の難事であったことは間違いないでしょう。
前法王ヨハネ・パウロ2世の襲撃事件すなわち「ファティマ第三の秘密」と、ナチズムに対する服従の全世界への公の謝罪、どちらが年代で先かは、カトリック信徒こそ正確に記憶しておくべき、現代史でしょう。

                                                                                                                • -

ちなみに、その現代史の中には、何百年も前の、ガリレオ・ガリレイの件における誤謬、それに対するバチカンの公式見解及び表明が、含まれます。すでに、承知しました。
そして、前法王の、この国における複数被爆都市への訪問も、然りです。知りました。

                                                                                                                • -

再掲になりますが、自分は、カトリックプロテスタントの、共同訳も持ってますから、祈りの時、同じメシアに在ることは、意識にもあります。
そしてそれは、同時に、カトリックプロテスタントでも無い、すなわち同じメシアに在って祈って居無い、違う異質のグループの在り方をも、考えざるを得ない様に、なりました。
それは、21世紀にまでも、繰り越されたのです。

                                                                                                              • -

誰を通して、何十年も祈って来たか。まさにその事が、たとえば『峻別』という語彙を用いて、違う異質のグループの在り方とに、眼に見えない一線を画するのは、至極当然だ、とおもいます。
それも、これも、換言すれば、信仰の証し、その範疇に納めるべきものだからでしょう。

                                                                                                              • -

かって、この国において、たとえば、熊本の水俣の海洋汚染、からの中毒被害事件。
そして、主要都市幹線道路の排ガスの大気汚染、からの喘息被害事件。
それら被害者たちは日々の生活において、痙攣で振るえる手で祈れるだろうか。何と祈るだろうか。考えてもみました。しかし、直接の被害者で無い者が、ただそうするだけに終始するなら、発生した公害問題は解決しないでしょう。またゴホンゴホンと呼吸に喘ぐ被害者たちも、祈りの声を出すことができるだろうか。美味しいと深呼吸する生活が奪われたのでしょう。
そこから、企業と、行政と、納税の義務を果たしているのに、という図式が見えてくるのは、市民の多数です。そして、たとえば水俣弁の石牟礼道子著「苦界浄土」や、ユージン・スミスの写真集「MINAMATA」をとおして、事の深刻さと無関心の恐怖を知った。また、林立する煙突群から吐き出る煤煙の四日市市の上空から、風向きまで気になりだした。
地図を開けて、よく見れば、現在では、たとえばカトリック修道院も、プロテスタントの修練所も、必ずしも、奥深い山間部や森に囲まれている地域に在る、とは言えない。
言いたいことは、この星をも誰がお創りになったか、信じている者は、、呼吸し食物連鎖を承知した者として、反自然や自然破壊に対して、何か為さねば、という命題をも提示されたことです。
これも、繰り越されたのです。

                                                                                                            • -

今では、何処の生産地のものであろうと、ワインが飲める。
フランス産も、ドイツ産も、そしてカリフォルニア産も。
そして国内でも、北海道産も、山梨産も知っています。
先年の沖縄サミットでは、国内の某障がい者授産施設のものが使われたという。
今年の北海道洞爺湖サミットも、もうすぐです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
やはり、名曲に間違い無し!「飛んでイスタンブール」♪
コンスタンティノープル。耳障りの良さ、音の響き、というのは、個人差ですよね。この地名の声に出して、耳で聴いた心地よさ、というのは、それこそ、東ローマ帝国が15世紀半ばまで生き延びて、方や西ローマ帝国が、西暦以来、その半分で滅亡した。その首都の地名の、民衆が呼んだ時の、聴覚への記憶の快さ、なんだ。と、ひとり仮説で、歴史家自称アマチュアに帰省するのです。
あの辺りに、旅行に、庄野真代さんは、貢献しました。政治家向きかは、別として。
詞が韻を踏む、という典型的な、推奨歌でもありましょう。
聴きましたよ。歌手も、選曲のセンスの良さを評価されるでしょう。
久保田早紀「異邦人」♪という名曲もあります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
外国のミュージシャンがインストルメンツをば、それに詞を付けて、歌謡曲仕立てしてしまうなんて。プロは凄い。
しかも、デュエットする和泉雅子さんが歌う時は、地の心底笑顔で、その疑問も後年、彼女の生家が銀座通り、と知るや、納得。
誰も彼も、歌って、聴いて、楽しくって。そりゃ、名曲。
青春の歌謡曲、ベスト3です。「青い山脈」♪、「二人の銀座」♪
・・・
劇映画「青い山脈」の主題歌が流れる、ラストシーンですか。若い男女たちが、自転車で海まで走るシーンを、じっくり観ました。
今井正監督は、才気煥発ですね。アングルもいいのがあるし、若者たちの疾駆する青春を、わずか6台の自転車で、捉えました。
それが、小道具が大道具か知りませんが、道々具か動道具。
眼下に白波寄せる急勾配。3組の新カップル誕生で、締めくくるのでした。
未来と希望を、観ました。
何もない。でも、若い人たちがいる。彼らが生きる意志を表明した。これにすぐる快哉は、ないですよね。
「二人の銀座」♪にこだわるのは、銀座という響きなんでしょう。
花の都、東京のファッションを着こなす、そんな若者たちが集まり闊歩する街。内外のブランドもショーウィンドを飾る大通り。
全国至る街に、それが伝播して、やれ私鉄沿線の駅前商店街。旧国鉄の駅前商店街。どこもかしこも、○○銀座商店街として、夜灯の柱にその名を付けた。
云わば、その名の由来の総本山。
まぁ、本家本元辺りだと、鉄筋ビル群で、その合間にに老舗の店舗。サラリーマンの厚生年金やら、自営業の国民年金やら、歌が流行った当時は、まだそれら統合という時代ではなかったでしょう。そんな老後の、職業選択にかかわる、支給額の相違など、若い二人が歌う分には。歌が、そういう制度の隙間を埋めるべく、役割を果たした。そう思わせもした、時代が変遷しても、歌い継がれるでしょうね。
そこに銀座はあり続けるでしょうし、花の首都のネオンの花を若い顔に照らすでしょうから、若者らが。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
旅の宿、今時の折りたたみ傘は100円でも、三つ折で、小さな肩掛けカバンに収まる。
夕食に外に出て、自動販売機で、宿の部屋に備え付けのちいさな電子冷蔵庫に入る大きさのミネラルウォーターを買おうとしたら、いきなり雨が降り出した。
それで、持参した三つ折傘をひろげて、並びの中華料理店に入った。
あんかけ炒飯なるもので腹を満たし、宿にカンヅメになるなら、足慣らしに駅前まで歩こうと、コンビニの中に入り、待てよ、ちいさな電子冷蔵庫の中の差込式棚を外せば、単数のペットボトルで数日持つぞ、と店内のコーナーで、値札を比較した。
1本とガムをレジ袋に、復路をひとつ奥の道路で戻る、その途中、先ほどの食堂の裏手が専用駐車場で、その入り口際の電柱に、何やらかさばって、ぶどうの房のように、小冊子の束が、ひとつひとつ透明ビニルに入ってある。高さ1メートルほどに引っ掛けてある。
防水用のそれを返すと、「生命之光」の今月号である。
こんなところで、お目にかかるとは。電車に乗って、駅前から歩いて、配布しているのだ。こういう仕方もあるのだ。
自分は、もう贈られていたので、そのまま、宿に戻った。

                                                                                                        • -

翌晩も、それを確かめ、そのままその足で専用駐車場を抜けて、店内にて注文した。その折、電柱に掛かりし件を、店主に話しした。
後は、その人の判断である。