かいふう

近未来への展望や、如何に。

ある日

   奇跡とは。

 

奇跡は起きるだろう。

何とも、無責任で、具体性が備わってない。なので、そういう体験した者が。それを奇跡と、まあ、認めるんですね。

個人が。それを、他人に披瀝、公開するは。極私的である、意識してるが為、反撥や不信を買うかも知れない。

文型からして。だろうは、未来形。この手の枠は、次に。

いきなり跳んで。過去の、伝記の対象者辺りから、その人の生涯、業績。後世に及ぼした感化。良き先人先達の、紹介等に着地するが、妥当。了解。

「奇跡の人」と呼べば。定番は、彼女。それさえ、少年時に視れば、受ける少女。彼女だと誤解しても、許される。後年、指導する方と同年代になって。初めて、その呼称対象者、実は有給の家庭教師でした。

出会った、ふたりの意気投合。いやぁ、これは、与える家庭教師の労働意欲の問題。無給じゃ、やらんだろう。ビジネスで、契約で。だから、プロの仕事。

代価を得る若い教師にしても。その専門知識、専念する方法論。その仕事だから。つぶしが効く、生かせる。他じゃ、使えません。

その子の家庭だって、厳格敬虔なクリスチャン。富裕層ですよ。8ミリフィルムだって撮ってる。その子も、誕生は健常者。わずかな可能性は、十分あった訳ですよ。

新任家庭教師にすれば。願ってもない好条件。頭脳の破損は、ほぼ皆無。そこまで行って、呼び覚ます。

私は、劇映画で観ました。それだけのタレントが、輩出した。やはり、ハリウッドは映画の都。観客からは、視るだけの静。それを、最も困難な題材をして。見せたのですから。

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その時から、数十年経ったでしょうか。テレビで、少女が主人公の伝記映画をも、新作で観たのですが。これが放映は。決して、三重苦の彼女を、神格化。否、むしろ健常者と何ら変わらぬ生き様というか。描写は、そんなものでした。

半世紀経たからでしょうか。いつまでも、その三重苦に拘泥していれば。いや、その者だけに執心するなら。やがて、誤謬に落ち込んでしまう。

彼は、それを望まない。誰だか、解りますよね。

他の、世代交代。彼らの支援や福祉がなおざりになってしまう。既に召された者より、

現に、眼のまえに生きている彼らに。係わらねば。

そういうメッセージ、だったのでしょう。

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いずれにしても。上記、二本の映画は。多分、クリスチャンが作った映画です。

ここが、肝心です。私にとっては。

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 奇跡起きるだろう。

領域、範囲が限定されるにせよ。ある確信が、発言者にはあるようだ。

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奇跡起こすだろう。

その主体性には、触れてない。誰が。

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以上の相違について、考えてみた。

ある事例を、見つけて来て。それを、素材に、解剖というか。分析してみるしか。

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