個人と、アリバイ。
すくなくとも。理解し、弁えた心算です。でも、彼らは違う。上っ面だけです。
それを、我われは、クサい芝居と、云う。
それが、社会現象なのか。それとも、単に。個人の心理、或いは憲法で保障される。そう、良心の自由。それに依るものか。定かでありません。ですから、法治国家。法の支配、とも云うのでしょう。
徒党を組む。それとも、衆愚政治。様々な謂われ方がされますが。
時々、ルソーを思い出します。彼の、おそらく肖像画。あの時代、写真等ありませんから。
それで、肖像画が残る程。残せる程、何か貢献、評価されたんでしょうか。その肖像画、すなわち絵画。まあ、カラーでしょうな。
カラーも、リアリズムのひとつでしょう。より、身近に感じる。この、感じるという反応。芸術で、五感。先程の、クサい芝居も、入って来ます。
これを云うは。誰も騙されたくない。その心理が働くが故でしょう。
騙すが、確信犯ならば。騙されるは、自己責任です。
騙す騙されるは、負のスパイラル。故に、私クリスチャンであろうと、無かろうと。
誰でも、忌み嫌うはずです。
それで。何故ルソーが、評価業績を残したか。「人間不平等起源論」を著したかららしい。何せ、背中合わせで逆方向歩いて行って。翻って、拳銃撃って。生き残ったがセイギ。そんな時代背景でまかり通っていたんですから。
彼がカトリックか否か。知らぬ。
彼が著作は。あの、「フランス革命」の理論的支柱のひとつらしい。
国旗、三色旗。その象徴の、思想です。
我われは、両親も教師も選べません。しかし、良心は、選べます。最近は、教師も選べる、らしい。
特に、この国。少子高齢化、この現象。数少ない子供を、いい加減な教師に預けられません。家庭教師なら、尚更。
我われの時代。教壇の有無の記憶が無いにせよ。当時の教師の方々、皆戦中派だった。両親も、そうでした。その暗黙の了解が、我われをして。大人しく従順であれ。その規範でもありました。まさに「戦争を知らない子供たち」(^^♪だったのです。
それで。偉大な思想の持主、彼の肖像画を、同類異業の画家が、勿論ギャラで仕事しても、わかります。
明日に相応しい、ペテロが詰問。あれも、アリバイの証明のひとつ、でしょう。
他人の空似。
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Wikipediaで、[時任検索]するに。
彼は、アメリカのスター俳優です。「陽のあたる場所」で、リズ・テイラーと共演し、最後の「ニュールンベルグ裁判」で、アカデミー賞助演男優賞で、ノミネートされた。
ある噂が、巷間に流れました。それは、上記の、他人の空似。それではないのです。
「ザ・ピーナッツ」(^^♪と、同じ。
それは、有り得る事でしょう。その相違なるは。彼女達がそのタレントある高低音ハーモニーでもって。聴衆を魅了し、名声を得たように。リアルタイム、隣人として共に仕事した訳でなく。ひとり孤独に耐え、演技を加え、キャリアを積んで成功した。
モンティとも呼ばれ、享年45歳ですから。「美しき者の伝説」に入るでしょう。
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母国が違えど。45歳、同年齢で逝った日本の作家に、戯曲「わが友ヒットラー」があります。彼が言った、歴史、伝統、文化に準えれば。「序・破・急」ですね。
彼が最期は、極東軍事裁判が為された、関東は首都圏ですから。
アリバイ、という単数語。それでは、解読不可能な。【国難】の時代の、複数被告人が集団の軍事裁判です。
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この、第二次世界大戦、の戦後処理。洋の東西は問わず。裁判は、裁判です。
しかし、それでも。「ニュールンベルグ裁判」と、極東軍事裁判は東京。洋の東西は、問われています。ドイツと、日本。別の国です。ナチスドイツと、神国日本ですか。
国体が、違い。それぞれが、独自の憲法を保持。国家の歴史がありました。
私も、この二つの裁判。双方、被告で出席した人物。彼を知りません。
半世紀前。「落日燃ゆ」という本、手にした。当時首相を務めた者のひとり、広田弘毅の伝記でしょう。彼も結局、極刑を免れませんでした。BC級戦犯の本も。
戦犯と云えども。時空が違う、と世俗的に云わずとも。被告らの、その所属国体の範疇が違う。間違い、という言葉は、非常に重要な物言いですよ。
事実は、日独が「防共協定」なる、枢軸国の同盟を結んでいた。その事実に基づいての歴史です。
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しかし、普通。アリバイは、法治国家。「無実の罪」、冤罪事件で、よく援用され足りもします。
私が、アメリカのスター俳優、彼を思い出し。彼が出演の「ニュールンベルグ裁判」を思い。それと、並行されての軍事裁判。極東軍事裁判は東京。その当地で、或る決行を為された方が遺作のひとつ。
それらを連想したは。極私的な、意識と記憶。そのありふれた陳述。
戯曲「わが友ヒットラー」は、その題名からして。誤解されかねない、曲解されやすい書名です。毎度、しつっこいが。当時の当事者、その置かれた情況、心境は。
内部に閉じ込められた者、部外者には決してわからないであろう。「ワルソー・ゲットー」に閉じ込められたユダヤ人。帽子を被った痩せた少年が、外から帰って。入口で検問に、汚れたオーバーが異様に膨らみ。そのボタンを敵兵に切られて、ドバーっとジャガイモの山が足元に散らばる。その旧いフィルム。もう、誰もが見た。
戯曲たる形式は、その宿命を免れないのでしょう。その限界を痛感した者は、ならば。
優れた戯曲を作って。兼自らそれを演じようと。しかし、その両タレントたる者。滅多に現れない。
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従いまして。あの事件に付いて行けなかった者は。次世代になって。棄教してない自らを省みて。異邦人がスター彼を思い出し。おそらくは同じ信者として。彼が出演の欧州圏での戦争軍事裁判を想い。
それで何と。どうどう巡りではないですが。小説での遺作ではなく。同じ作家でも。
戯曲での遺作「わが友ヒットラー」、彼の遺言に等しいと想われる昨今。
それを、略読した記憶からは。独裁者の周辺、ドイツ人ゲルマン民族固有の美点たる質実剛健。規律ある集団性。それらが漂う中、軍事進攻の為の、重工業の財閥たち。
独裁者と手を組んだ彼らの権謀術数、その密室の会話。
冒頭の、上っ面だけの、クサい芝居。それに抗する縁として。
その奥底の真実を発見できるなら。ひとり、読解する時刻を用意してもいいのでは。
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隣国大陸では。大会が開催されます。はっきり、ぬけぬけと、標語に掲げているようだ。ここで、見過ごすが、後年の禍根にならぬよう。しかと、見届けよう。
異民族を、呑み込もうとしてる。