沖縄慰霊の日。
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久米島博物館に、多くの証言残る。
6月23日は沖縄で組織的な戦闘が終わった日とされるが、沖縄本島の西に位置する久米島では、3日後の26日に米軍が上陸し、9月まで日本軍とのにらみ合いが続いた。3月に町史を発刊し、多くの証言を聞き取った久米島博物館の山里直哉学芸員は「沖縄戦が慰霊の日で終わったという認識はない」と強調する。
「あと1時間もすれば、みんなで池に飛び込んでいた」。6歳の時に久米島で沖縄戦を経験した渡嘉敷一郎さん(82)は、一家で防空壕(ごう)を作って暮らしていたが、米軍上陸の知らせを聞いた家族が「米兵に殺されるのなら自殺しよう」と決意。集落の50~60人で正月に着る一張羅を着て、防空壕のそばにあった池の土手に並んだ。
「いつ飛び込もうか」と話し合っていたところ、米軍に同行していた仲村渠明勇さん=故人=が「死ぬ必要はないよ。戦争は終わったんだから」と駆け寄って来たため、思いとどまったという。一郎さんは「明勇さんがいなかったら、今この世にはいなかった」と話す。仲村渠さん一家は終戦後の8月18日、日本軍に殺害された。
一郎さんの妻、政子さん(82)は島の別の場所で米軍の上陸を知り、家族と島を逃げ回った。最初は洞窟に隠れようとしたが、住民がひしめいていたため、遺体が風葬された竹やぶで3日間を骸骨と共に過ごしたという。その後洞窟に隠れたが、区長らが「戦争は終わったよ」と呼びに来るまでの間、何日も「洞窟に滴る水滴を手酌で飲んで過ごした」。
久米島では抵抗が激しくなかったため、米軍に殺害された住民は数人にとどまったが、日本兵による殺害は終戦後も続き、スパイ容疑などで20人が犠牲になった。政子さんは「戦争が起これば、人間の性格が変わってしまう。刀を向けられた人のことを思うと涙が出る」と振り返った。(時事)
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泥の轍に顔埋め 握ったままの手榴弾 終わらぬ前線 敵兵たちは通り過ぎて行った
雷鳴轟く晩に 埋めたままが余りならば せめて梅雨知らず 土砂降りでもって洗え
その少女の顔を
沖縄の梅雨など、知らない♪ 詞曲:ピーマン
1.デイ デイ 南の島 ウェイ ウェイ 轍の跡
メイ メイ めくる暦 ノスタルジア ♬
ハピィ ナウ、ドゥ ドゥ ドゥ ハピィ ナウ、ドゥ ドゥ ドゥ
アッパー
2.トレイン トレイン 雷の晩 レイン レイン 車窓の滴
プレイン プレイン ぬぐう少女 ノスタルジア ♬
~ハピィ ナウ、ドゥ ドゥ ドゥ~ ~(くりかえし)~
突破ー
3.レール レール 前へ進め ルール ルール リングの上
プレーン プレーン 海の下 ノスタルジア ♬
~ハピィ ナウ、ドゥ ドゥ ドゥ~ ~(くりかえし)~
発破ー