かいふう

近未来への展望や、如何に。

の平成、これから。

今は、屈強な自衛隊員が不動歩哨する防衛庁正門。かっての時代、この旧庁舎のバルコニーから決起を促した方は、下広場の聴衆たる自衛隊員に向かって、マイクも無く、垂らした毛筆の「檄」も細かくて読める代物ではなく、集まる隊員もほとんどが外出という誤算もあり、真意は現場では伝わらず、万歳三唱の後、室内にて覚悟の自決を遂げられた。
その人の生き方、死に様については、その方を含めて、言及は避ける。その方の山梨の文学館でさえ寄らずにきた。当時、自刃した首が座るモノクロ写真が撮った記者の特ダネ、【美学】完遂、よかった、ぐらいしか記憶他に残さず、にきた。
最近、皇室での吉報や継承の問題でマスコミが動き出して、「檄」を今なら熟読理解可、とおもい読んでみた。当時現憲法における自衛隊の存在の自己矛盾と、その《腑抜け》状態からの脱却、覚醒を隊員諸氏に迫った、と解釈した。すると、彼がその卓越たる知識人としての頭脳で緻密に計算された、国民向けのモノクロ写真は、どうでもいいもので、【美学】で完了、という自分の判断は錯覚、という不安が生じてきた。
この不安を払うには、彼が究極とした次の終点、それが何か、特定せねばならない。そう、自分は知識人ではない。何十年前、すでにそれを知りえた人たちは、知識人であろう。
戦後、GHQのもと、対共産圏、予備隊は発足し、自衛隊となった。内務の警察、ならば国難を迎えての国防、この任務こそ、自衛隊。その自衛隊が、現憲法で『戦力は、これを保持しない』では<空証文>ではないか。この{真空}に呼吸困難に、彼が人一倍鍛錬せし肉体が先走りして、『象徴たる天皇』に到る。バルコニーの舞台から去る彼の呟き『仕方なかったんだ』。
明治欽定憲法、それまで戻っていいのか、わからない。先の呟いた彼がそれを求めていたのか、それもわからない、と言っておいた方が自分にはいい。現憲法に『象徴たる天皇』は、すでにあるから。すると、問題にするのは、『戦力は、これを保持しない』、こちらになる。この箇所を更改することなく、『象徴たる天皇』を保持し続ける、それが可能足り得るのか。国難はもう来ない、と断言出来るのか。その権威は誰が保持してるのか。天皇でないことは確認した。国民の総意。
この日に記述したのは、それでは「拉致事件」は、国難か否か、という問いかけである。
拉致事件」という破壊され開いた穴を、塞がずにいると、[日本丸]はやがて沈没。
桃の節句も家族と共に祝うこと適わぬ、13歳の元少女。そして島からさらわれたままの母。母国が母国足り得るのは、さらわれた母たちを返してもらうことだろう。祖国が同様足り得るのもまた、拉致された元少女が、お祖父さんお祖母さんと呼ぶ少女と共に、桃の節句を祝うことだろう。