かいふう

近未来への展望や、如何に。

「罪」と、「罪」

kaihuuinternet2006-08-13

政府は12日、犯罪被害者保護の一環として、刑事裁判の手続きの中で民事上の損害賠償請求を行える「付帯私訴」制度を導入する方針を固めた。

殺人などの重大な犯罪が対象となる。

刑事裁判で採用された証拠などをそのまま民事裁判で利用することで、被害者の迅速な被害回復を実現するのが目的だ。

法務省は今秋をめどに法制審議会(法相の諮問機関)に諮問し、来年2月ごろに答申を得たうえ、来年の通常国会にも関連法案を提出したい考えだ。

現状では、刑事事件の被害者が損害賠償訴訟を起こす場合、刑事、民事の裁判は別の裁判官が行い、事実関係の証拠調べなども別々に行われる。

新たな付帯私訴制度では、刑事、民事の両裁判を同一の裁判官が行う。具体的には、刑事裁判の裁判官が裁判の判決後に、民事の損害賠償請求の審理も行う。刑事裁判の審理結果を基本的に踏襲するため、民事裁判では証拠調べを繰り返す必要がなくなる。審理は数回程度で終了し、簡易・迅速な審理で損害賠償額を算定し、決定を下す。

被害者にとっては、短時間で民事裁判が決着できるメリットがある。

一方で、被告らの権利を保障するため、両当事者が付帯私訴の決定に不服がある場合は、通常の民事裁判を行う仕組みも残す。

法務省は、新制度の対象となる犯罪は、殺人、強盗傷害、婦女暴行などの重大な身体犯に限定する方針だ。刑事担当の裁判官らの負担が過大になるのを避けるためだ。損害賠償の算定が複雑で、簡易・迅速な手続きになじまない経済犯罪などの財産犯は対象としない。

法制審議会の専門部会のメンバーには、犯罪被害者に詳しい弁護士や、支援団体の有識者も加える見通しだ。被害者側の意向を最大限反映させるためで、現行制度との整合性も考慮した上で、新制度の詳細を検討する。(2006年8月13日読売新聞)
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主日礼拝には、どこの教会でも、{説教}というその日の主題で、牧師が話をされる。
自分は、神父あるいは司祭がそれを、直に聞く機会を持った事がないので、あくまで牧師のそれしか数知らない。
で、その日の主題の選定は、祭壇が話をする当の牧師本人が判断、とおもう。あるいは客員での招きでは、この主題でとその教会の主任牧師から頼まれるやも知れぬ。
プロテスタント、しかも単立となると、かなり自由だ。それが{売り}、だからその教会で[洗礼]を受けた、としても。最低二度は、その役を受け賜って、たとえ数人でも聴衆が居てくれる、のは有り難い。もはや何年も顔馴染みだから、大目に見てくれる。神が赦している、から会員も許してくれる、どうにかの{説教}でも。執事にも、主任牧師療養のため、会長不在のため代行、という例外重ねの恩寵の日が用意されている、という訳だ。いわば実習で、登壇した方も、タレントないな、向いてないな、と諦めも着こうというものだ。
それで、主題も、最近のニュースとかの日常身近の出来事、あるいは過去の象徴的な事件、それと結びつけた話となる。映画好きの牧師なら、「天地創造」とか「十戒」の劇映画を観ての感想、そしてその元の[聖書]に立ち入るのは、本人初心者で、聞くも同様なら、容易だ。「わたしのくびきは軽い」から。
旧約の[十戒]を守れるなら、正当防衛で人殺しの容疑者に弁護士は要らないはずだ。それで、「罪」と、「罪」とを分ける。
ドストエフスキーの「罪と罰」、小説で虚構だから、作家という職業が、自由業として読者を得て、生活の資となり、古典とも為り得る。
医療も弁護も、病み老いる、過失し傷つける、その人間の自然、社会生活に依っている。その行為が、先の職業同様生活の資となり、救助の名誉とも為り得るからに他ならない。
自分が未だ求道者でもなく、教会にも通ってなかった時、イエスは優しすぎて死んだ、とおもって片付けていた。でも、これは余りに幼稚な捉え方だ。
その後、彼は優しくて厳しくて死んだ。そして、彼は優しくて厳しくて、他人の罪を被って死んだ。と自分の解釈が変わった。それだけ、イエス様の実体が正しくわかってきた、と受け止めている。
医師ほどの健康も弁護士ほどの弁舌も持ち合わせてないが、向老の年齢にしても、若い人には厳しく、は自称クリスチャンの証のひとつだと自認するひとりでありたい。彼が、厳しかったのを知ったから。しかし、ひとりに過ぎない者であるからして、他人の罪を被って死ぬ訳も無く、言いがかりを付けられたら、今度は法治国家たる制度に則り、もうひとつの「罪」無しを、抵抗し、闘わねばならないことは、当然の権利にして、自由である。