かいふう

近未来への展望や、如何に。

彼女たちは三姉妹だった。

kaihuuinternet2007-04-22

小学校高学年の時であったろう。生活道路が四角に仕切った区画の同じ住所で居住する、ある家を訪ねた。おそらく通学する担任教師に頼まれたか、だと追想する。でなければ行く理由が見当たらなかった。では様子見のお見舞いであったか。二階屋の視覚が無いから、平屋だったろう。玄関からすぐ左りに入ると、畳八畳位の南側に彼女が居た。初めて見た彼女は、背骨が曲がっているらしく、座っているのか、寝そべっているか、判らない。顔も小さいし、体全体もそうだ。腕白ざかりの自分には、どう声掛けていいか、それも判らないのだった。さて、その時誰かを誘って行ったのか、誰君と一緒にと教師に言われて行ったのか、それさえもう忘れてしまった。ひとりでは照れくさいから、男子が横に居たんだろう。
数分か経った。奥に居た母親が近くに来て、彼女が描いた画用紙の絵を、この子が描いたのよ、と見せた。そうだ、その方が自然だ。南側窓ガラスからの日の明るさに、病弱な少女が己が手で画用紙を立てて見せれるはずがない。一瞥で目を合わせて横顔を見せた、その視線の先に画用紙の自画像が、こっち向きにある。
今見た小さな顔の彼女と、その横長の絵の中の少女を見た。
絵の中の少女は、その左半分を占めて正面を見ている。母親は、訪ねてきた少年の、その時の表情を読んだはずだ。自分は、隣に友達連れで来たかも忘れて、もう一度絵の中でない方の彼女に視線を返した。どっちが本物なんだ。
その違いは、大きかった。言葉が出てこない。母親が何を言ったか、耳に入らない。残ってない。
嘘だろう、とおもった。絵の中の少女は頬っぺたも丸く肉付きがよく目も大きい。
ところがどうだ。会い見た彼女は、まるで老女のように背もたれている。
ここの玄関を叩いた時、開けたのは、健康な少女か母親か、忘れた。内に入って、その妹を見たのかも知れない。とにかく、姉妹だとはわかった。来る前に、自分の母に問うて、聞いていたのかも知れない。
健康な妹に比べると、余計信じ難かった。でも、訪ねてきたのは、同学年だからだろう。言伝を伝えに来たんだろうに。
彼女の病気が、脊椎カリエスか小児マヒか、知らない。重病だとは子供ごころにわかった。難病という言葉さえ知らない歳であり、元気なガキだったから。
その家の玄関前は、その後何度となく通った。歩いて。またある時は走って。そしてまたある時は自転車に乗って。
でも一度として、その後、彼女に会ってない。
しばらくして、あの子死んだんだって、と母から聞いたんだろう。
それから、たまに、その通りを通る時、その健康な妹を見たりすると、何故かその妹を敵視するようになった。なんかこっちを避けている様子だ。その感情が後年憎しみだとわかった。では何故そうおもうのだ。
近くの神社の杜で野球や、かって通った幼稚園までの途中の川でのザリガニ取りや、自転車に乗ってかなりの距離まで皆と遠出してくる、遊び盛りの少年には、病気がわからないのだ。

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十字架上のイエスを見た。
茨の冠を被り、あばら骨を何本も浮き立たせ、痩せ細り、老いて、とても救い主とは信じ難い。

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でも待てよ。その姿は、以前見た誰かに重なる。

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年月は過ぎた。
ある幹線道路を車で走っていた。歩道のガードレール附近に、葬儀場の案内看板が架かっているのを見た。その名を注視すると、それは、あの時の訪ねた家の名字であった。確認して急遽、その場所近くに停車した。喪服姿の往来が続く。儀場の灯りに、あの時の少女の父親の葬儀であるとわかった。声を掛けていくうちに、あの時の妹さんと、もうひとり、あの時の少女に面影が似ている女の人がいる。悲しみにくれる彼らにしつこく聞いたんだろう。その女の人は三女だという。知らなかった。彼女たちは三姉妹だったのだ。

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「エマオ」という名に、その名字は、意味がある。
自分が、その地にたどり着いたのも、その家を訪ねた記憶に依るところが大きい、とおもう。
まことに、少年の時の体験というものは、かくも残る。
絵の中の少女こそ、本当の彼女だ。
不治の病を背負ったのは、仮の姿。十字架上のイエスであって、山上の垂訓の彼ではない。
いいや、健康な彼女を、絵を通して、不治の病を背負った彼女は、
訪ねし友に示してくれた。
不治の病を背負った彼女を、少年はどうすることもできなかっただけだ。

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[聖書]を読まない者は、その想像力を育てることがかなわぬ。