かいふう

近未来への展望や、如何に。

『醜い真実』と、『恐ろしい真実』。

kaihuuinternet2007-10-28

『醜い真実』とは、先日、沖縄の県民大会で、壇上から、学生少女が訴えた、ある事に対する抗議の声である。
先の大戦時の沖縄県民集団自殺にかかわる、軍令の有無について、真実を知りたいと、学生少女は訴えた。
ただの真実ではない。形容詞がついている。それも、醜い、がだ。
教科書検定の問題だから、学ぶ生徒である少女は、叫んで訴えたのである。ここでいう、醜い、とは何であろうか。強要があった、軍の武器による威嚇の下での、という事だろうか。戦時下といえども、あってはならない事と、そうではない事、の違い。間違いを犯したのが、軍令から、という意味だろう。
純粋が、美しいなら、醜いは何。少女は学生として、歴史を今まさに学ぶ学徒として、醜くても、それが真実なら、多少傷ついても、それを受け入れる準備があります、と訴えたのだろう。ただの真実、よりか。学生である猶予期間を過ぎてから、遅ればせながら、で記事を読んで、間接的よりか、現在の年代で、60年前の事実を知ることを。
『恐ろしい真実』の方は、自分が少女と同じ年代の時、買った本の中にみつけた、ある作家が選んだ言葉である。この作家は、「足摺岬」という作品も残した。彼が選んだのは、この言葉が、著名な外国の作家の作品の中で語られるので、すなわち、同業者だから、親近感を抱いた、とおもわれた。
正確には、『真実は美しい。それが、どんなに恐ろしいものであっても』と。
ここで上げた『恐ろしい真実』は、その略である。
そして、その言葉が載る本の題名は、「エデンの東」である。
長編小説の題名であるから、[聖書]を開けて、その辺を探しても、そのような記述は見つけ出せない。キリスト教文学、という範疇なのだろう。
しかし、「第三の男」や「事件の核心」を書いた、カトリック作家ではない。

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クリスチャンの証、というより告白で言うなら、自分はその本を買ったが、拾い読みもしていない。本棚等に、精神衛生上、置いてある。
その点では、「経済学」の本と同じだ。

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だから、大人は、少年もしくは少女に、ある真実を語る時、熟慮が要る、という戒めなのだろう。
それ故、自分が、その真実を語られる側、すなわち少年もしくは少女の時は、そんなに気にせずに済んだのだが、年経て、語る側に回ったな、と判断した途端、真実を語るのに、大人の決断が要る、と気を付けざるを得ない。
誰も人を傷つけたくないからである。そんな役、引き受けたくないだろう。
学校の教師に任せていいもの、はそうするのが、楽だ。
しかし、肉親だからこそ、回答せねばならない事柄は、そうは行かない。母親は、出産の苦痛も授乳の感覚も記憶している。
しかし、父親は知らない。そういえば、第一反抗期、第二もあったっけな。

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然らば、真実と、『恐ろしい真実』と、どちらを取るか。大人の自分ならそれでも、条件付き、と回答する。いや、してもよい。いやいや、できることなら、ただの真実の方だ。それがたとえば、平穏無事なら。
しかし、少年もしくは少女に、敢えて後者を取らせる大人はいないはずだろう。栄えと、『虚栄』も、同じ回答だ。
主の栄光というは、光と、『闇』、の違い。
判別する能力が問われるのだろう。天使のかたちした悪魔もいるし、試しにきもする。
告白するにしろ、すべきものとそうでないもの、その判別が着くのが、
まともだという状態確認です。
自分の背負った十字架は、口外無用ではないか。
迫られて、人の許しか。神の赦しか。
ここまで述べれば、添えねばならない。 アーメン