かいふう

近未来への展望や、如何に。

本邦初訳のホラーCMも流れているが。

携帯電話大手3社の2007年9月中間連結決算が6日、出そろった。昨年10月の番号持ち運び制の導入以来、顧客流出が続くNTTドコモだけが減収減益となった。

ドコモは、2年間の契約継続を条件に基本使用料が半額になる割引制度を導入したが、契約者数が伸び悩み、逆に減収要因となった。

一方、ソフトバンクモバイルは自社契約の携帯同士の通話が原則無料になる低料金プランが好評で、新規契約から解約を引いた純増数が114万件と半期ベースで初めて首位に立ち、大きく業績を伸ばした。KDDIの携帯電話(移動通信事業)部門は、純増数首位の座をソフトバンクに譲ったものの、持ち運び制度での利用件数は業界トップだった。(読売)
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自分は、ヒッチコックの映画や、TVではモノクロで「世にも不思議な物語」で免疫造った世代だから、最近の和製ホラー映画が海外でリメークされても、たとえば、お化けが観ている画面から出てきても、そのテレビ自体を調べて、{メイド イン ジャパン}を探すボケでかわすけれど。
昨今、10倍の儲けに味占めたバイヤーが、更なるビジネスで、何匹目かのドジョウを求めて来日する。
当方鰻丼を喰えなくなったら、サンマの蒲焼缶詰でもよいから、それでもドジョウ鍋は喰った試しは無い。

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映画業界もそんな現状だから、TV業界も、どうせ抱き合わせのB級ホラー映画を納涼で放映するなら、スポンサーまかせだろうけど、こちらも昨今、とうとう、ホラーCMまで登場する破目になったようだ。
先日もふれたが、日本犬が、日本語で、妻と娘に説教垂れる、なんとも不気味なCMである。
こちらが浅漬け、ならぬ浅読みだったようだ。大和撫子を犬娘扱い、ではなくて、もっと深いぞ。
日本の、つまりこの国の父親は犬だろう、がこの不気味なCMの云わんとする趣旨らしい。
この社の同様CMは数種あり、そのひとつなんだけれど、なぜか日本編だけがこの作りで、他は有名な俳優が小粋に演じている。
そういえば、その俳優、たしか「バベル」という映画で主演したらしい。その映画観てないが、日本の若手女優が聴覚障がい者役で、しかもラスト近くヌードシーンもあるらしい。製作者の意図が奈辺にあるかは、観てないから、詮索せぬが。
そうだ、こちらの云わんとするのは、犬娘たる大和撫子の若い娘、それを持つ父親は犬親だから、それを承知せよ、というCMである、ということだ。
当方国文学者を生業にする者にあらず。しかし、このCMには、抵抗感をもはや通り越して、虚無感を覚えてしまう。この国の父親を隔絶孤立させて、その家族には犬父を洗脳させたいのだろうか、と勘ぐってしまう。
この推測は、老いるがゆえの偏狭な見解であろうか。
それとも、この国の父親たちは、多忙で、たかがCM、とタカをくくって、見過ごすだけなのだろうか。
自分には、どうしても、本邦初訳のホラーCM、にしか見えんがの。
こちらは、冷凍秋刀魚でコスプレのホラー映画製作する金が無いが。

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平家物語」、「徒然草」、「枕草子」、そして「方丈記」など、受験勉強も含めて、とはいえ、やはり先人が残せし、後世に伝えたい何かが有るゆえ、ではないか。
もはや、そのほんのわずかの触りしか記憶にないにしろ、連綿と語り継がれて来た古典。心血を注いだ作品群である。もののあわれ、わびさび、無常観、死生観など。それでも生き抜いてきた逞しい生命力を底流に、我われに示唆するものの悠久をおもい、更生の活力を湧かす。
それを空虚に、犬が父の訳のわからぬ発言が、消去する。
あなおそろし、とは、我が身の老いの錯覚か。
さにあらず、だろう。
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レベッカ』も、『断崖』も、同じヒッチコック監督の、モノクロ仕立ての作品ですよね。どちらが製作年度が先か、調べてませんが、観客にとっては、そういう俳優と監督の息の合った劇映画という共同作業を堪能できるのは、楽しみですよね。役作りは、やはり女優さんには、『レベッカ』の方が難しい。後妻に来た新妻の役ですから。
風と共に去りぬ」のスカーレットは、ヴィヴィアン・リーしか考えられんが。
よく役作りで、休憩時間もその役の心算でいる、という役者さんもいるらしいが、あれは、衣装のままの時代劇の話かな。
新進女優に、巧者の自他共認めるイケメン俳優が、演じる過程で、やはり彼の私的な判断より、その女優が的確にその役を、私的な恋人女優より上手く演じて行けば、その撮影合間の意地悪は、配慮ではなく、単なる私的感情の為せる術だったのでしょう。
でも、それが意地悪だった、と誰が見破ったのでしょうか。他の共演者でしょうか。それともスタッフでしょうか。
でも、それも含めて、残ったフィルムの中で、ヒロインが輝いていれば、後年「オセロ」で主演した彼からすれば、題名『レベッカ』は死んだ先妻の名ですからね。そして、観客からすれば、観ていくうちに、この映画の主演は、やはりヒロインで、その夫は副次的としか映りませんからね。脚本読んだ段階で、彼ほどの名優なら直観もしたでしょうに。

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風と共に去りぬ』の大プロデューサー、彼はユダヤ系でしょうか。
この壮大な、アメリカ存亡の市民戦争の原作は、多分クリスチャンであったろう、女流作家のライフワークですよね。その想像力が如何なるものか、ひとり読者は、対決するのだ、とおもう。読んだ時には、もうその劇映画は、四半世紀も前に、いわゆる映画化されていた訳で。
だから、未だ若いスカーレットが慕う、ジョーン・フェンテインの実姉の女優オリビィア・デ・ハビランド演じる親友、の夫役レスリー・ハワードも英国の俳優で、この出演後出征して、確か大西洋で戦死した。そんな事まで知るのは、ごく後になってのこと。彼の遺作でしょう。想像を具体化する、再現してしまう、劇映画という世紀の芸術。南部のお姫様が、戦争で多くを失い、タラという地で、逞しくも生きることを宣言するシーンは、ラストのその地のテーマ曲と共に、二十世紀の半ば、同様に廃墟と化した母国、観客としてその映画に接した日本人は、このヒロインを演じた小柄な英国の女優に、共感を禁じ得なかったんではないでしょうか。
映画と音楽と文学が好きな一市民、のブロガーさんも、同意してくれるでしょう。それらが一杯になった不朽の名作でしょうから。
彼らはスターですから。乾杯。