かいふう

近未来への展望や、如何に。

TVドラマ「復讐するは我にあり」を観た。

テレビ東京で、再放送ではあるが、日曜イベントアワー「復讐するは我にあり」を観てしまった。佐木隆三さんの直木賞受賞作である。
「エマオ」以降、料金を払ってまで映画館鑑賞はない、と決めたから、それ以降の劇映画は、如何に名画といえども、TV放映しか頼れない。
するとどうしても、やれ何処の系列だとか、如何ほどの視聴率だとか、この番組のスポンサーはどんな会社だとか、そっちへ向かう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
今回は映画では描かれなかった、犯人が弁護士を装い熊本の教誨師一家に接近した恐怖の3日間を作品化。性善説に生き家族を守ろうとする教誨師と“悪魔の申し子”と呼ばれた殺人犯。善と悪の息詰まる対決を柳葉敏郎大地康雄ら豪華キャストで描く。(テレビ東京
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
[旧約]を開いて、その戒律の厳しさに、その唯一神に従うに、このTVドラマの題名のまま、その<聖句>に出くわした時の、困惑というか、戸惑いというか、それを強烈に憶えている。
父親と家族で、何回忌法要とか、墓参りは、定まっていたものだし、その祈り方を教わってきたからでもある。
自分が労働で、汗水たらして得た収入で、憲法で保障されているであろう、諸々の自由、それらを、自分の意思で、判断で、決めて生活する。

                                                                                                                          • -

[旧約]の、この、『復讐するは我にあり』は、通俗で云うなら、アブハチ獲らずになりはしないか。すなわち、唯一神ヤハウェを取らぬ限り、復讐される側に留まらざるを得ない、というある懼れを、抱かせる響きがあった。
それを、自分なりに紐解くには、[旧約]を読み通さねばならぬ。そんな膨大な時間が、どうして工面できようか。それが、信仰のはじまり、と回答されれば、なるほど、になるのだろうけれど。
それで、思い浮かんだのは、自分は親の信仰を受け継いで、その後に次に、この、『復讐するは我にあり』を含む書物を、読ませればいい、とおもったりもした。
だが、すると、自分が読みもしないものを、読めとは薦められぬではないか。

                                                                                                                              • -

この事件は、自分には距離がある。
同時代で出くわした事件では無い。ということは、もっと以前である。ということは、もっと生きるに難儀した時代の事件であったろう。
確かに、脚本の西岡琢也さんは、犯人の暗い陰鬱な少年時代を、先の大戦前から、幾度も反芻させて、視聴者に提示する。
だから、TV箱窓を視ている側も、その少年の時代背景にダブらせると、自分の出生年代に気付かされる訳だろう。
ヨハネの黙示録」を、その謎を、そのもしもの巻き込まれの結末を、少年時代に崖っぷちで体験させられたら、その傷痕は、誰によって、何時如何なる形態で癒されるだろうか。
今回TVでドラマ化されたその頂点が、異教徒の教誨師の家での最後の夜、家族を抱える家主と犯人との会話であろう。
犯人は言う、「復讐するは我にあり」と。異教徒の教誨師は答える。「わたしは仏教徒だけれど、同じ教誨師から聞いたのだけれど、あの『復讐するは我にあり』の我は人ではなくて、神なんです」
それを聞いての、犯人の驚愕。誤解していたのだ、彼は。神を、人と解釈していた。そうして来たのだ。監督の猪崎宣昭さんは、窓外からガラス越しに、犯人の表情の変化を撮った。
殺意を抱く時だろうか、その度ごと、クローズアップの顔はネガで挟む。
渋る捜査員たちの陣容も、ロングショットで納めていた。
自分は演劇評論家ではないから、ここでは、役を演じた俳優さんの批評はしない。
でも、犯人役も教誨師役も上手かった。彼らの芸歴に残る仕事だろう。家族も皆適役だった。
犯人がショックを受けたのは、異教徒の一家など、その生死など、どうにでもなって構わない、「復讐するは我にあり」とあるではないか。それさえ知らずに来た教誨師など、騙されても。ところが、『復讐するは我にあり』を知ってるのを知らされて、かつ核心の誤解までも指摘された。
原作を読んでないから、その題材の事件も知らずにきたから、実際の犯人が思惑と真意は、知る術が無い。
しかし、彼が誤解して、すなわち誤信したのは、[旧約]の中にあるそれであって、[新約]ではない。
故に犯人の彼は、クリスチャンでもなければ、その棄教者でもない。
信じてくる人たちを、正体も見破れぬ者たちと一括りして、騙し欺き、わかってくれない者たちとして、連続殺人まで犯してしまった。
[旧約]の膨大な書物の中の、或る句のみを偏執的に拘泥し、しかも、<その句>にある<我>を人と誤解し、それを暗誦する人である我が身のみを。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
もっとも、この事件の犯人が、[旧約]の『復讐するは我にあり』の、<その句>のみに拘泥し、かつ誤解して、それが理由のみで、連続殺人の再犯を肯定させる、とはおもえないから、佐木隆三さんの綿密な取材調査と、そのモデルの生立ちを踏まえた書名が、直木賞受賞の選考を誘引したのだろう。

                                                                                                                • -

だから、自分が今回、かくも偏執的に拘泥したのは、自分がクリスチャンであることを証する為にも、そういえば以前どこかで読んだ、それが[旧約]の『復讐するは我にあり』を使って、同じくそれを書名として出版しての受賞作家の、意図というか資質を、その後の彼の活動と線でつないでみたかったのかも知れない。

                                                                                                                • -

それに、偶然と呼ぶべきか、前の日の、それでもエピ、のギ曲に。
その眠っていた、枯葉に埋めていた深層心理に、たとえ、[旧約]の『復讐するは我にあり』であろうと、それが脳裡をかすめたのである。
ギ曲、という形式を執って、何十年を経て、時効の加害者に、リベンジの一石を投じた心算である。