かいふう

近未来への展望や、如何に。

主日

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エス

バプテスマのヨハネの日。

やはり、一度は語っておかねばならぬだろう。

信者のひとりとして。洗礼名を自らが選んだ、そのひとりとしても。

だから。あくまでも、私的見解。彼にかんする。

[旧約]の、モーゼ。そして、アブラハム

そして、登場の彼。その位置付け、ではある。

この彼を介して、主が洗礼を受けたのであるからして。

やっとも役目を終えて。その彼の結末が、また悲惨で残酷な光景ではある。

 

その儀式たるや。何も、と思ったりもしたが。そうしなければ。

それを経なければ、やはり、事が運ばないのだろう。

「覆水盆に返らず」の故事。私の性格からして。すぐオトシたがるのだが。

落ちた首は、凄惨な椿事。もとへ、珍事。

水によるバプテスマ

東洋の、歴史ある或る国のカツオ節、ならぬ武士道。そのような最期の彼らも、この宗教の、同様の無様の異教徒の、前座の運命をば。如何ほど、知っていたであろうか。

故に、例えば。この国の「佐倉宗吾伝」の、幼気な子供たちの、訳もわからぬ連座獄門の処刑までも。想ってしまう訳です。

「幼い者のようにならなければ、天国に入ること」、なりません。あそこは、成田です。正確には、新勝寺と同門。東勝寺

故に。そういう場所は、訪問者。異教徒の分類は、問いません。

海の向こう、地の果てからのクリスチャンも、どうぞ。

横道ならぬ、青梅街道から、千葉街道までも、逸れてしまいました。

 

さて。

「経験」と、「体験」との、その相違。

かって。被爆体験記の表題の本を、見た。

『擬似体験』した、もある。

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昨日の、今日だから。載せるが。

 沖縄の梅雨など、知らない♪

それに集中した折。

少女をば、先ず。本来の誕生の時同様に、戻ってもらわねば。

報告すること、能わず。

天秤の(罪)の釣り合いはともかく。泥だらけから、洗浄して。

気付かせて、目覚めて、起きてもらう為には。老婆心でも、声をかけねばならぬ。

そういう者が、他に見当たらぬならば。梅干爺が、その役回りなのだ。そうでしょう。

命令形を使う。使っていいんでしょう。

天使に飛んでいってもらう。

なら、天秤の(罪)の釣り合いなど、考えずに。

その少女を再び起こすために。命令形を使って、声掛けていいんでしょう。

その感覚は、『擬似体験』した、爺さんでしたね。

ああ、バプテスマのヨハネが、主に施したは、さような感覚か。

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しかし、梅干爺さんは彼ではないですから。まだ、首はつながっています。

アーメン

 

 

 

 

 

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