かいふう

近未来への展望や、如何に。

主日

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エス

マティア故の、世紀末後。新世紀を20年後、語るべき課題。その3

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そして、本世紀は、21世紀。依って。

私、日本人として生まれ。還暦を、二十歳同様、お祝い事として迎え。

ならば。それ以降、可能な限り。自由に自然に振舞い、楽しもう。そう、欲する者のひとりでありたい、と思います。

 

絵のないマンガ その15

1.クリスチャンの極々、基本。

『私、クリスチャンだから。『汝の敵を愛せよ。』ってあるから。誰か、敵を愛さなきゃ。そう、あそこの誰か。仮想敵国、ならぬ仮想敵者にして、クリスチャン証しましょう。』

2.そんな契約、何時、交わしましたかね。

3.(『火葬敵国でも、いいカモ』)

4.それ、嫉妬の火遊び、モヤモヤでしょ。

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おそらく、何百年は続いたであろう家系。彼らを、初代のクリスチャンとして。信者迎えるには、どんな方法、配慮が要るだろうか。

私も、その経験してる。なので、多少わかるのですが。

用意万端整って。さぁ、やはり、個別に投函。印刷物で、目視で、アピール。

教会堂に来てもらえれば。中を、拝見すれば。どんなに贅沢で、選ばれたか。

ここに、日常的に通える事が、如何に将来に、希望を見出せるだろうことか。

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とにかく、空きがあるのだから。空席が、あなたの為に、神様が用意してくださって

くれている。

さあ、座り給え。腰掛け給え。

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それは、例えば。先人先輩先達。それらの、言葉を介して。巷間に流布する、普通の、ありふれた言語を使用して。

果たして。共闘、すなわちスクラムが組めるか。探ってみよう。

その三つを選んだは。共通に、先、がある。その理由は、

先代先年先日。年月日を、表して、時系列で、わかり易い。

それらを、為らば。われわれが、部外者を意識、認識するが故。

卑近にも。もはや、はっきり述懐して、いいだろう。

それらは、イタリア半島に在る某市国である。新大陸に在る西部は某エバンジェリカルである。それに、誰が発案か判らぬ、北東はアジア、何処からアイデアの半島主役の団体である。

それらの、どれに。先の三つが言葉をそれぞれ配して。相対させるか。それは、指して意味がない。

それぞれの、教会史。それに沿って、概観を、イメージで追ったまでです。

そして、80年を経た中近東は、彼の国の[旧約]の地域、その神に未だ拘る。ゴルゴダ磔刑の彼を拒む組織である。

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今日に至る3日間の、これを読んでいただれれば。輪郭は、把握してもらえただろう。

これは、個人が私見に過ぎない。

しかし、不特定多数、ならぬ。少数でも、せめヒント足り得れば、そう思って、記述するものである。

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従って。下記に、ささやかではあるが。入門でも、論拠を提示したい。

最近、Wikipediaでも。ダウウンロードの仕組みで、私所有が聖書を、掲載を為した。

よって、そこから、転載を為す。Wikisource、でパブリックドメイン

 

2:16[編集]

自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。

ペテロ第一の手紙

 

16 「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびその友であるイスラエルの子孫のために』と書き、また一本の木を取って、その上に『ヨセフおよびその友であるイスラエルの全家のために』と書け。これはエフライムの木である。

エゼキエル書 第37章

 

8:32[編集]

また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。

ヨハネによる福音書

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[共同訳]を持ってる者として。ペテロ第一の手紙

[旧約]を、全てとは云わぬが。係わりある書を、読了した者として。エゼキエル書

 

『キムチ種』があるか。知らぬ。トウガラシのことかいな。

われわれは、からし種は、知ってる。彼も、言ってる。

だから。『キムチ種』なるもの。茨の冠の彼、の頭上に、どうやって載せたのかね。

でなければ。『成約』なるもの、はなはだ、怪しい、不確かなもの。

 

そうなると。サン・ピエトロ広場を抱える教会が、ファティマ第三の秘密」。それは、「秘密」の終結ではない。と彼が死後、バチカンは後日、宣うのですから。

ここと、連動してしまう。というより、対抗意識を示さざるを得ない。そういう状況。

ヨハネによる福音書を引用した理由が、『キムチ種』を併せて使いたい、彼らに。甚だ、唐辛子ではないが。辛い対処で、接してる、私がいる。これ、否めない。

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ペテロに係わる教会。それに、意図も安易に、マリア様との軸足の違い。それで、納得しても。

そして、もうひとつ。旧約故、承服はともかく、承知してれば。不安は無い。

 

でも、以上とは異なる。『キムチ種』なるもの、臭わせている。

然らば。[新約]が上に、何を載せたいんだ!

その行為、デッチ上げ自体が、『キムチ臭』だろう。

無理心中が変形、しか見えんぞ!

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更に。彼の国の[旧約]の地域、その神に未だ拘る。

その組織団体については。約半世紀前、講談社刊「聖書の世界」で、編著者として、参加された。木田献一氏が講釈、文献を拝見した。

よって、それを利用させていただく。

 

14 わたしは久しく声を出さず、黙して、おのれをおさえていた。今わたしは子を産もうとする女のように叫ぶ。わたしの息は切れ、かつあえぐ。

15 わたしは山と丘とを荒し、すべての草を枯らし、もろもろの川を島とし、もろもろの池をからす。

16 わたしは目しいを彼らのまだ知らない大路に行かせ、まだ知らない道に導き、暗きをその前に光とし、高低のある所を平らにする。わたしはこれらの事をおこなって彼らを捨てない。

17 刻んだ偶像に頼み、鋳た偶像にむかって「あなたがたは、われわれの神である」と言う者は退けられて、大いに恥をかく。

18 耳しいよ、聞け。目しいよ、目を注いで見よ。

19 だれか、わがしもべのほかに目しいがあるか。だれか、わがつかわす使者のような耳しいがあるか。だれか、わが献身者のような目しいがあるか。だれか、主のしもべのような目しいがあるか。

20 彼は多くの事を見ても認めず、耳を開いても聞かない。

21 主はおのれの義のために、その教を大いなるものとし、かつ光栄あるものとすることを喜ばれた。

22 ところが、この民はかすめられ、奪われて、みな穴の中に捕われ、獄屋の中に閉じこめられた。彼らはかすめられても助ける者がなく、物を奪われても「もどせ」と言う者もない。

23 あなたがたのうち、だれがこの事に耳を傾けるだろうか、だれが心をもちいて後のためにこれを聞くだろうか。

24 ヤコブを奪わせた者はだれか。かすめる者にイスラエルをわたした者はだれか。これは主ではないか。われわれは主にむかって罪を犯し、その道に歩むことを好まず、またその教に従うことを好まなかった。

25 それゆえ、主は激しい怒りと、猛烈な戦いを彼らに臨ませられた。それが火のように周囲に燃えても、彼らは悟らず、彼らを焼いても、心にとめなかった。

イザヤ書第42章

 

8 目があっても目しいのような民、耳があっても耳しいのような民を連れ出せ。

9 国々はみな相つどい、もろもろの民は集まれ。彼らのうち、だれがこの事を告げ、さきの事どもを、われわれに聞かせることができるか。その証人を出して、おのれの正しい事を証明させ、それを聞いて「これは真実だ」と言わせよ。

10 主は言われる、「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである。それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟ることができる。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない。

11 ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。

12 わたしはさきに告げ、かつ救い、かつ聞かせた。あなたがたのうちには、ほかの神はなかった。あなたがたはわが証人である」と主は言われる。

13 「わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。

イザヤ書第43章

 

4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。

8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。

9 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。

10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。

11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。

12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

イザヤ書第53章

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上記。それぞれ、バビロン捕囚からの解放。イスラエルとの関係の再確認。

そして、第53章。これは、会堂説教では、どこでも必ず聞かれる。

第二イザヤの段。

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その組織団体。この国に対するに。どう、観てるのだろうか。

[旧約]の、イザヤ書の、バビロンのごとくに、重ねてるのだろうか。

確かに、不夜城がごとくに。大都市始め、24時間。稼働してる。皆、よく働いている。

しかし、その照明。ネオン広告も含めて。工場の、事務センターの勤務体制等は、原子力発電、その平和利用による。

[聖書]に、「ヨハネの黙示録」に、『ヒバクシャ』の文字は、見当たらない。

足しても、削ってもいけない。

3勤務体制。宿直、明け、の労働を経験した者にとって。勤勉かつ、アジアの牽引車足らんと欲するならば。その循環が上手く行ってるならば。やはり、継投するがよかろう。

エスを公言せぬ限り。第二イザヤの域をでない。それは、この国を、[旧約]扱いにしか、見ていない。それにも通ずる、と想わせる。

エスが奇跡の数々を、認めたがらない。それは、彼らが、障がい者に対するに。その配慮をしない。為さない。それが、透けてみえる様に、思える。

彼らが現状認識は、如何なるものか。被爆地を、その歴史を抱えて、75年余。

2011年、3月11日。その日の日本列島が厄難。東日本大震災以降。

此の国が背負った運命。

それを、まるで。何処ぞ、他国の災害のように。

移動式井戸端会議リクリエーション』がごとくに。復興税を納めているから、と云わんばかり。地元『安全地帯』を、訪問する。晴れの日、にどうぞ。

その域を出ない感は、否めない。違和感を禁じ得ない。

私も、その団体自体が組織の歴史。長い事は、承知してる。

ファッションを、否定する者ではない。しかし、「うるさい!」、「タダです!」の返答では、誰が行くだろうか。

若者が、自己の夢想や。ゴルゴダの丘磔刑を空想の産物、としか捉えられない。そのような、不感症を払拭できない。そんな生ぬるい感受性で、『安全地帯』を闊歩されても。[旧約]式SFに、しばし、タイムスリップ。

今度来たら。彼らと同じ返事はしたくないね。従いまして、当方、「やかましい。」「タダより高いものはない。」

次回の応答を、用意してる。そんなやり取り、空虚だろう。

必要は、社員教育。ならぬ、布教教育だろう。

頼まれた、から。来たそうだ。遠路はるばる、だろうから。当方も、彼の要望に応えて、私が[聖書]を、その若者に開示したが。

私も、数十年前。同様に、あったから。倣ったまでで。もう、ウンザリですよ。

その団体。昔々。十代少年が、事故で、体幹等骨折で、重態。保護者たる父親が判断で、輸血拒否。結果、死亡。親権による、信仰で、子の寿命をどうこう。社会的問題を提示した経緯がある。当時訪問した、若い看護師、彼女の述懐によれば。火傷と同様か。ある範囲以上に損壊が越えると。手術で輸血しても、助かる確率は、極少。

専門家たる医師は、それを承知でも。延命処置するが、彼らがプロ。

その組織団体、やたら、血に拘る。それも、彼らが信仰の部分故。

信仰か、医療か。その命題を、問われる訳でしょう。

それは、身内が、そういう状況にならぬ限り。普段、気に止めない。

医療従事者は、プロとして、診断下す。

輸血によるところ。肝臓等、後生罹患を受けて。大変な闘病を背負う方も出てくる。

かって、駐日大使が病例も、記憶にある。

[旧約]が時代の、それで。果たして現代が医療に、どう応対可能だろうか。

適応の条件。このフレーズ、気に入っている。

老後。誰もが迎えるものならば。医療的、福祉的。双方、考えよう。

費用対効果。これも、要る。

 

その団体。対障がい者意識が、希薄なのではないか。イエスが数々の奇跡を、

彼の名を公言せずして。彼が為した奇跡を、素直に認めず。[旧約]が輸血に拘泥している。イエスに、不従順。

認めたがらない、根拠。彼等は、ある時は、盲人が手引き。またある時は、車椅子を押す。そして、ある時は聴覚が不自由な彼らに、手話もしくはジェスチャーでコミュニケーションを取る。

それらが、煩わしい。その辺りの意識しか持ち合わせていない。それが、バレるが、本音かね。

輸血は、医療の領域だが。障がい者の手助けは、福祉が範囲。

エスが不在は、障がい者福祉に対する拒否だ。この国の福祉に、無頓着無関心。

この結論は、おおよそ的を射ている、とおもう。

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様々な教会、団体。形態は違えど。意外な距離感は、否めない。

毎度。自己の信仰告白を含めての、地の塩舐めての、意見であるし。他教会への批評だから。この当たり、この辺りなんだろう。

新世紀を越えての。意識を高揚させての、迎えた現在ならば。

どちらが、改革をすべきか。改めるべきか。

再考しようね。お互いに。

 

アーメン

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