かいふう

近未来への展望や、如何に。

我が内なるパウロ的なるものとは.その3。

NHK教育「こころの時代」の再放送を聴いた。再放送というは、早朝にすでに放送しているからである。聴いたというは、それをラジオでである。
太田愛人牧師の、パウロの「ローマ人への手紙」の、最終回。
サウロからの転向が、『眼からウロコ』であるから、その間追っかけの迫害する側で、その性格が出たがりで旅行好きなんだろうな、とおもったりもしたが。否、その反対だろう。ローマの市民権を持って振りかざすなら、異郷への外出など、とてもとても。それが、布教活動でかくも各地に赴くのであるから。そうまで人が変わるのだから。
その換える力を、知りたがる。
だが、その声を聞いたという体験は、個別のもので、他者には到底わからない。
だから、その、パウロ的なるもの、でしか入り口の扉は用意されてない。
歴史マニアには、ローマ帝国が、キリスト教を国教とした事が、西洋史を変えた、と常々おもってきた。それは、ネロとかカリギュラとか愚帝が虐殺で多くの殉教者が出て、後の賢帝が政(まつりごと)で採用はあるにせよ。ネロも暴政で狂ったのは、水道管に使用した鉛毒という、今でいう公害の中毒患者らしい。セネカが教育したにもかかわらず。
国教採用、そこが転換点で、たとえその後、ローマ帝国が東西に分断されても、西が6世紀前に滅びても、あの耳に響きの心地よいコンスタンチノープルの東が、その後1000年近く続いたのも、民衆がキリスト教徒たる人々の、確固たる信心の賜物と、受け取った。
太田牧師が言う、地中海沿岸地域での、ユダヤ教徒及び異教徒に対するパウロの行程は、想像するだに、精力的で広範囲だ。あの時代の交通機関をも想えば。
しかし、パウロも、ペテロと共に、ネロの時代に殉教したのであれば、まさしく同時代人だった。
ペテロでもなく、後パドロス島島流しになって書いた手紙の、[黙示録]で当時のローマの圧政をバビロンにたとえて語ったヨハネでもない、そんなパウロこそ、
日本鎌倉仏教の親鸞を対比は、これも、そうおもう。
『偽悪者タラント欲す』、の代表格。
[旧約]レビ記にもある、隣人を愛せよ、も踏まえての、パウロの兄弟愛と隣人愛。
太田牧師は言われた。「新約は旧約を成就する」

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ならば、ゆめゆめ、それ以外に、たとえば{虚構の宗教}をおもわぬように。
そう、マッテヤ(マティア)には、おもえる。

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そのマッテヤ(マティア)は言う。
「それは、その半島の民の、とりわけ南の民のある教祖の『発明』であろう。しかし、その時から、もはや60数年。二世代の年限をも越えた。『半島人の、半島人による、半島人のための、協会』という真実に帰着する。
然らば、それらを承知で、更にそれに捕らわれることも無いし、敢えて無力に引きずり込まれる謂れも無いだろう。
もはや21世紀を迎えて、その光を浴びてなお、盲信するだけの軽きくびきを取ろうとは、おもわぬ」                            
「彼らと距離を置くのは当然。離れて在るは必然」    アーメン
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いつも午後2時からだと、そうおもってラジオを点けたら、「本因坊秀策」なる人の話。囲碁も忘れたし、本因坊の由来も来歴も知らぬ。
聴いてたら、江戸時代の人で、今でいうと広島で、当時の藩の殿様の援助でタレントを嘱望されて、本因坊家に養子に行き、囲碁の御前試合で認められ、後コレラ流行し時看護に労苦を惜しまず、されど伝染して、若くして病死した、という。
五目並べも、もうしないから。オセロゲームもしない。
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むしろ、鎌倉新仏教までくると、重なるイメージが、別の感覚で、感じます。
親鸞さんが、回心したパウロ、に近い、とおもえるのです。
この同じ[はてな村]で、「歎異抄」で検索すれば、そのような方が、載せてます。司馬遼太郎さんも、三木清さんも、「歎異抄」を絶賛されてます、とね。司馬さんは、親鸞を、「戦争と平和」のトルストイとも比しているようです。
日蓮さんの性格は、イエスに似た性格のヨハネ、とは重ならない。ごめんなさい。十字軍の騎士と、日本刀の武士では、遇わないですものね。
でも、個人的に、日本史をみるに、やはり国難の蒙古大襲来は、時の執権北条時宗は、その山門下の石碑は、鎌倉の名刹禅宗の寺ですから。それに、ここには、坂本弁護士一家も眠っています。
宗門選びは、ついには、その人の性格だ、と。
空海さんの真似しても、ダメ。日蓮さんのカリスマ強引も、なし。
宗門幾つも叩いて、もうこれしかない。その過程を惜しまない、なら、ある意味、贅沢です。
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その人の職業が、労災ではないですが、その人の信心の宗教を決定する、ともおもえてならない。農林水産業に私が従事していたら、自然の中でのお仕事ですから、空海さんっていいな、って感覚ですね。勿論、三宝に帰依する訳でしょうから、高僧の方々との対話もあるでしょうが。いわゆる第一次産業でしょうか。第二次はすると、卸とか加工業。そして第三次はサービス業。少子高齢化は、たとえば介護、福祉、そして医療等。世俗的なら、水商売もそう。そして、芸能とやらも、その性格もありそうだ。芸能と、芸術と、じゃあ、何がどう違うんだ、と問われても。
田畑耕作腰曲げて。揺れる海面に網掛けて。鋸チェーン装で大木倒し。どれも体力不安だから、お断り。流通トラック渋滞事故心配。
鰹ブシ作りや梅干の手間も掛けられない。で、残った職業選択が、対人関係に疲れた、とか。
だから、当の本人が最もよく知ってる訳でしょう。現在の信心する謂れや訳を。
そこには、何か魂胆が有って、未来にそれが役立つというか、プラスに働くと想い、そうするのでしょう。
自然の中、自給自足で事足りるなら、空海さんに非常に親しみを感ずる。しかし、現代で、それは稀なこと、とおもわれる。その稀の稀少価値に、海外の異教徒であれ、髪目の違う人であれ、知ったからこそ、高野山地域一帯をば観光という目的で来るんでしょう。世界遺産という、誰かが思いついた、地球規模の相互乗り入れ方式で。