かいふう

近未来への展望や、如何に。

『ノーモア ウォー!ノーモア ヒバクシャ!』/原爆症救済法が成立

kaihuuinternet2009-08-09

長崎は9日、被爆から64回目の原爆忌を迎えた。

爆心地に近い長崎市平和公園では、市主催の「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が開かれ、被爆者や遺族ら約6000人が参列した。田上富久市長は長崎平和宣言で、「核兵器のない世界」を目指すとしたオバマ米大統領プラハ演説への支持を世界の人々に訴え、核保有国の指導者らを名指しし、「被爆地・長崎へ来てください」と呼びかけた。

式典では、この1年間に亡くなったり、新たに死亡が確認されたりした原爆死没者3304人の名簿3冊が、平和祈念像前の奉安箱に納められた。被爆者代表や麻生首相秋葉忠利広島市長、過去最多となった29か国の駐日大使らが献花。原爆が投下された午前11時2分、「長崎の鐘」が響く中、参列者らが黙とうをささげた。

長崎平和宣言で、田上市長は、核保有5か国に核拡散防止条約(NPT)の核軍縮の責務を果たすよう要請。「核兵器禁止条約」の批准を求め、「プラハ演説への支持を表明し、核兵器のない世界への道をともに歩んでいこう」と呼びかけた。

麻生首相は「唯一の被爆国として、広島、長崎の悲劇を二度と繰り返さないために努力する」と述べた。(2009年8月9日読売)
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長崎原爆で被災した旧制鎮西学院中(現・鎮西学院高)のOBらが、被害の実態を調査し、犠牲となった140人の名簿をまとめた。

全員の名前を刻んだ慰霊碑は、諫早市鎮西学院高の敷地内に完成し、9日、除幕式が行われる。

同学院校友会(会長=栗林英雄・鎮西学院理事長)によると、当時、校舎は爆心地から南西約0・5キロの長崎市宝栄町にあり、原爆で半壊し、学籍簿も焼失した。事前の空襲警報で学校に集まっていた校舎周辺に住む生徒らが犠牲になった。

校友会が開校110周年の1991年に調査した際、教職員や生徒100人以上が犠牲になったことは判明したが、詳細は分からなかった。このため、被爆当時の在校生ら25人が2007年10月、名簿作成委員会を結成。約1年10か月にわたり、被災を免れた学級の集合写真などから記憶をたどり、一人ひとり遺族や級友を訪ねて確認した。

その結果、原爆が投下された1945年8月9日から同年12月末までに、少なくとも、教職員9人、生徒131人が死亡したことが確認された。一方で、91年調査では死亡とされた生徒の中に、生き延びた人がいたことも分かった。新たに死亡が確認された在校生34人のうち、13人は校内で亡くなり、4人は作業場に行くために校舎近くに集合したところで死亡したことも分かった。

当時、在校生は1〜4年と付設科の12〜18歳の計1068人。名簿に収めた生徒以外で、いまだに382人が消息不明という。

当時3年2組で、爆心地から2・5キロ離れた工場で被爆した同委員長の西嗣也さん(78)(長崎市泉2)は「当時の在校生たちが友達の名前を思い出せなくなっており、後輩に歴史を残そうと名簿づくりを急いだ」と言う。

同じ3年2組だった2人の死亡も確認され、泳ぎが上手だったことなどの思い出がまざまざとよみがえったといい、「長崎原爆忌には、新たな気持ちで友達を追悼したい」と話している。(小川哲雄)(2009年8月9日読売)
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前日、テレビの某局番組をラジオで聴いたら、それが、この鎮西学院の事であった。正味3分の2程であるが、当時在校生が証言で、迫ってくるものがある。
十代の若い、みずみずしい感性が、身体ごと吹き飛ばされてしまうのだから。
それに、チャペルで賛美歌を皆で歌う校風。
当時、爆心地から南西約0・5キロの長崎市内。自分も訪問時近辺歩いたので、距離感は残る。
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先日、自宅近辺を散歩すると、駐車場のコンクリート塀の下、ナスとキュウリに足を付けて置いてある。日本古来の風習、お盆の供え物である。田舎では旧盆とか、ならばここら辺は如何なんだろう。
ここ数日、何かテンション違う。いやだね。英語だよ。
当月は、6から始まって9で、そして15日となる。その間、マスコミは特集を組む。それを、従順に視聴し、あるいは読む。受信する。
それは、彼らを受け入れる儀式でもあるようだ。
数がおそろしく多い。先の大戦だけでさえ国内外総数が数百万名に達する。だから、無抵抗にただ受け入れる。悪霊ではないのを承知しているからだ。
自分が、慰霊する側に居るのを、その幸運と共に噛み締め、かって訪れたその土地の無数の慰霊碑に、邂逅する平和を感じる我が身を。
容易なることではないか。

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ラジオで聴く。『ノーモア ウォー!ノーモア ヒバクシャ!』
この声の持ち主は、名前を憶えている。長崎の山口仙二さんだ。
国連総会での発言だから、もう27年も経過した訳だ。
その時より、今回はラジオだからだろうか。激しく強烈に聴いた。
それは、その時から、年を追うごとに、あそこにもここにも、そんな処にも被爆者がひっそり暮らしていた、という承知に加算されての、記憶に促されてのことだ。減らすことなど、滅相も無い。
語弊があるが、現役の彼らが叫び続ける間は、黙って聴く側に居よう。
それは、真実で分けられているのだから。とってかわることはできないのだから。彼がその場所で全世界に訴えた歳より、自分は十年年上になってしまった。
重さとか真摯とかは、そういうものでしょう。
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半世紀を経て、未だ補償の解決策を終了させぬ、国家とは。
せめて、それぐらいは。それは、被爆を免れた同時代の同胞の、配慮というか。「憲法第19条」の良心の自由なんでしょう。
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ある書物には、『人のことをおもってはならない』と記してある。
でも、被爆者が、人扱いされないままなら。それ以下、そのまま生を終えるなら。
更なる悔恨をするより、彼らが生ある内に、然るべき適切なる対応をもって、彼らに答えるのが、国家たる所以ではなかろうか。
その書物には、被爆者なる名称は載ってない。
その決定的な傷痕による、悲しみ、苦痛。それらを治癒するに足りる補償は、たとえ不十分であったとしても報いてこそ、そこに住む民の母国、また祖国と呼称するものであろうや。
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オバマ米大統領が23日、国連総会で行った演説の要旨は次の通り。

◆核軍縮・非核化
我々は核拡散を防ぎ、核のない世界という目標を追求しなければならない。核拡散防止条約(NPT)はすべての国に核の平和利用を認めるが、核を持つ国は核軍縮に向けた責任を負い、持たない国は保有を放棄する責任を負う。

米国は戦略的兵器とミサイルの削減のため、ロシアとの新たな条約を追求する。核実験全面禁止条約(CTBT)の批准に努め、核実験が永久に禁止されるため、各国と協力する。

自らの義務を果たさない国は、報いを受けることになる。北朝鮮とイランは、我々を危険へ追い込もうと脅しをかけている。両国政府が国際社会の規範を無視することを選ぶなら、相応の責任を取らせる。世界は、国際法が空約束ではなく、条約の規定は執行されるものであることを示さなければならない。(読売)
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オスロ=大内佐紀】ノルウェーノーベル賞委員会は9日、2009年のノーベル平和賞を「国際協調外交を推進した功績」で、米国のバラク・オバマ大統領(48)に授与すると発表した。

特に、オバマ氏が核兵器の全廃に向け外交交渉を開始したことを評価した。

現職米国大統領の受賞は1906年のセオドア・ルーズベルト、19年のウッドロー・ウィルソン以来で、90年ぶり。就任して1年にも満たない大統領が選ばれるのは異例で、同委のオバマ大統領への期待値の高さを示した。

同委のトールビョルン・ヤーグラン委員長は、核軍縮交渉のほか、国連をはじめ多国間の枠組みを重視し、中東和平交渉など、「対話」を促進していることについて、オバマ氏への「支持」を表明。オバマ氏が提唱する「グローバルな問題に取り組むため、みなが責任を分かち合おう」という考えに「ノーベル委員会が108年間、まさしく追求してきた理念だ」と最大限の賛辞を贈った。

オバマ氏は今年4月、プラハでの外交演説で、広島、長崎に原爆を投下した米国には、核兵器を使用した唯一の国として、行動する道義的責任があると語り、「核兵器のない世界」に向け、交渉開始を宣言。9月に国連安全保障理事会で、議長として「核兵器全廃に向けた」決議採択を主導した。ロシアと戦略核兵器の大幅削減を目指す交渉を開始、年内大筋合意を目指す。

授賞には、世界随一の経済力と軍事力を背景にした、ブッシュ前米政権時代の一国主義から決別し、多国間の対話を重視するオバマ氏にエールを送り、米国が国際社会との協調を強めることを促す狙いがある。

授賞理由では、米国が気候変動問題でより建設的な役割を演じている、とも指摘した。温室効果ガス削減で慎重意見が多い米国世論に大統領への協力を求める意図もうかがえる。

授賞式は12月10日、オスロ市庁舎で開かれ、賞金は1000万スウェーデン・クローナ(約1億3000万円)。

 ◆授賞理由の骨子◆
▽国際的な外交と諸国民の協力強化に向けた比類なき努力
 ▽「核兵器のない世界」の構想とそれに向けた取り組み
 ▽国際機関の役割を重んじる多国間外交が中心的な位置を回復
 ▽米国は気候変動問題でより建設的な役割を演じている
 ▽より良い未来に向け、世界の人々に希望を与えた

 ◆ノーベル平和賞=国際的な平和活動の推進や軍縮などに貢献した人物や団体に授与される。ダイナマイトの発明で富を築いたスウェーデンの化学者アルフレッド・ノーベル(1833〜96)の遺言に基づき、1901年に創設された。

生理学・医学、物理学、化学、文学、経済学の各賞の選考はスウェーデンで行われ、平和賞だけは創設当時、スウェーデン連合王国だったノルウェーの国会が選んだ委員会が行う。授賞式は、ノーベルの命日にあたる12月10日。

日本人では非核三原則を唱えた佐藤栄作元首相が74年に受賞した。(2009年10月9日読売)

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みんなを激励する人に、授与して激励するなんて。
まさに、適切な対応だ。グッドニュース。
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オバマ米大統領ノーベル平和賞受賞が決まった9日、広島、長崎では被爆者らが「核廃絶に大きな力」と歓迎、地球温暖化問題への本格的な取り組みを期待する声も相次いだ。

 ◆広島◆
「世界平和の実現には核兵器廃絶が欠かせない、ということが世界で認知された」。大統領に広島訪問を呼び掛ける手紙を3度送った、被爆者で元広島平和記念資料館長の高橋昭博さん(78)は、「『受賞を機にぜひ広島へ』との手紙を出します」と喜んだ。

自らの被爆体験を描いた漫画「はだしのゲン」の英訳版を大統領一家に贈りたいと願う作者の中沢啓治さん(70)は「核兵器廃絶は容易ではない」と語り、「我々が核兵器の恐ろしさを世界に訴え、大統領を後押ししたい」と誓った。

 ◆長崎◆
長崎原爆被災者協議会の山田拓民事務局長(78)は受賞を知り、喜びと驚きが同時にわき上がった。「本当にふさわしい人。『時の人』を選んだ」。連休明けにも、お祝いと、核廃絶に向けて共に努力していく決意などを記した手紙を大統領に送るという。

長崎市では、大統領の長崎訪問を求める市民団体の署名活動が、9月16日現在で6万5000人分に達した。9日夜急きょ記者会見した田上富久市長は「最もふさわしい人が受賞した。長崎にも励みになる。今後も逆行したり、ぶれたりしないでほしい」と話した。

 ◆温暖化◆
受賞理由には、地球温暖化や人権問題への取り組みも含まれている。NPO法人「環境・持続社会」研究センターの足立治郎事務局長は、「大統領からは温暖化対策への意欲は伝わってくるが、大胆な数値目標は示しておらず、受賞は意外だ」と指摘。「世界の『期待』が集まった結果だと思う。今後は米国を一つにまとめ、中国やインドを説得してほしい」と話した。

大統領の就任式に日本の政治家ではただ一人出席した神奈川県の松沢成文知事は、「鳩山首相も負けずに、オバマさんと手を組んでしっかりリーダーシップを取っていただきたい」と語った。(2009年10月9日読売)
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原爆症認定集団訴訟の敗訴原告を救済する原爆症救済法が成立した1日、原告や被爆者団体の代表らは、訴訟解決に向けた流れを歓迎した。

ただ、救済対象は集団訴訟の原告のみ。原爆症の認定では11月末現在、約8000人が審査待ちとなっており、原告らは「病に苦しむ被爆者を一刻も早く救ってほしい」と求めた。

「悔しい思いもしたし、あきらめの気持ちもあった。だから、本当にありがたい」。1、2審で敗訴した京都市右京区の森美子さん(84)は救済法成立を喜んだ。長崎の爆心地から約20キロの病院で約1か月間、負傷者を看護し、放射性物質などの影響を受けた「救護被爆者」。急性腎臓炎や肝炎などを患い、2003年に原爆症認定申請を却下され、04年に訴訟に加わった。

裁判では、被爆が原因とは認められないとして敗訴したが、「救護被爆者が救われる道を開きたい」と上告。現在、救護被爆者は被爆者の1割にあたる約2万4000人だが、この20年間で原爆症と認められた人はいない。「救護被爆者には申請をあきらめる人もいる。原告以外の被爆者も救済されるよう尽くしたい」

一方、全国原告団などはこの日、東京都内で記者会見し、山本英典・全国原告団団長が「全員救済を叫び続けてきた。本当にうれしい。ただ、法律ができても安心はできない」と語った。今後、原告側と厚労省は、原爆症認定基準の見直しを含めた協議を始めるが、全国弁護団の安原幸彦弁護士は「基準見直しは進展がない。大臣との協議で改善を求めていく」と述べた。(2009年12月1日読売)

自分も、うれしい。
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原爆症の認定申請を却下された東京都内の被爆者24人について、本人や遺族が国に却下処分の取り消しを求めた集団訴訟の判決が5日、東京地裁であった。

八木一洋裁判長は、2008〜09年に緩和された原爆症の新たな認定基準で、提訴後に原爆症と認められた8人を除く16人のうち、これまで国が認定してこなかった胸部大動脈瘤(りゅう)の原告を含む12人を新たに原爆症と認め、却下処分を取り消した。残る4人については被爆と発症の因果関係を認めず、請求を棄却した。

原告は、広島と長崎に原爆が投下された際に爆心地付近にいたり、投下直後に両市を訪れたりした70〜80歳代の男女とその遺族。

八木裁判長は判決で、胸部大動脈瘤の原告について、「原爆による放射線の影響が疑われる」と指摘。新基準では、積極的に原爆症と認定する疾病とされていない脳梗塞狭心症などの原告11人も原爆症と認定した。

一方、爆心地から約4キロの自宅で被爆した急性心筋梗塞の原告ら4人については、喫煙歴などから因果関係を認めなかった。(2011年7月5日読売)
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長崎原爆などで両親を亡くした女性が、米兵の援助で看護師になる実話を基にした映画「ミトコと駆逐艦」の撮影が来夏、佐世保市などで始まる。

監督は、東日本大震災直前に宮城県石巻市などでロケが行われた「エクレール・お菓子放浪記」の脚本を手がけた泉悦子さん(64)。泉さんは「映画を通じ、震災で親を失った子どもたちにエールを送り、助け合いの大切さを訴えたい」と話している。

モデルとなった女性は、長崎市出身の山地美登子さん(74)(東京都世田谷区)。原爆で母親を失い、佐世保市の親類宅に身を寄せたが、翌年に父親が他界。生活は貧しく、小学生の頃から畑で働いたという。

米兵との出会いは中学生の時。朝鮮半島近海で機雷に触れて大破し、修理のため佐世保基地のドックに入った米海軍の駆逐艦「ウォーク号」の乗員らが山地さんの境遇を知り、ポケットマネーを出し合って高校進学から5年間の奨学金を贈ることにした。

山地さんはその後、米国の銀行から届く月4800円の奨学金を頼りに、佐世保商高から東京の日赤武蔵野高等看護学院に進み、念願の看護師になった。1993年、ウォーク号艦長だったマーシャル・トンプソンさん(2001年死去)の依頼を受けた在米日系人から手紙が届いたのがきっかけとなり、米サンディエゴで世話になった米兵たちと再会を果たした。

山地さんは97年、このエピソードを「ウォーク号の金メダル」という本にまとめ、感銘を受けた泉さんが震災後、映画化を持ちかけたという。

来年8月から佐世保市長崎市、東京、サンディエゴなどで撮影し、2013年春以降に全国で公開する予定。泉さんは駆逐艦で撮影できるよう、防衛省や米海軍に協力を求めている。

山地さんは「人種や国境など、すべてを超えた人の絆が伝わる作品になればうれしい」と話している。(河津佑哉)(2011年12月21日新聞)

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長崎市にも行ったし、日赤武蔵野高等看護学院そばも通った。
それにしても、原作を出版された山地さんにも、更にそれを10数年後、還暦過ぎて、監督されようとする泉さんがパワーにも、驚いた。
だが、そのパワーなるものの源泉が、駆逐艦「ウォーク号」の乗員らとその艦長の善意と祝福だとおもうと、いい話だ。
いい話、というは、とても感動した、という略語ですよ。