かいふう

近未来への展望や、如何に。

『部外者』と。「場外者」の違い。

前日の流れで云うなら。カトリックから、『部外者』であるプロテスタント。長崎で思えば。かって、殉教した[福者]を列席の儀式を主催時、その会場に入れぬのなら。近くの稲佐山に上って、そこから市民球場内に参集した彼等を、双眼鏡で観よう。そう発想する自己が居る。かって、決めつけられた発言を受けた自己は、発した者が、国語を間に、おそらく「異教徒」故「異言」を語り、おそらくその彼と同門で無い故。世代と、地域を共有せずして。貸借も無きで、これから先も会わずに行くだろう。「戦時下」の彼は、「団塊の世代」たる我われが抱えた、例えば「拉致事件」を、随意とみなして。「場外者」の領域から見てるだけでも構わないのである。再度の【国難】を強いる訳には行かない。その分、自由と平和を享受するがいい。従って、我われもまた。すれ違っても、会話も挨拶すらも交わす義務も理由も無い。