かいふう

近未来への展望や、如何に。

圏外編。その3 『ユダの福音書』、そして『マリアの福音書』、 の真贋、もしくはその採否、を巡る回想。

イエス

もう、彼此10年程経っただろうか。インターネット上の、某TV局系列のニュースで。『ユダの福音書』なるものが見つかった。学会でも、その真偽の程。マスコミも流し始めた。そういう『特ダネ』、その間飯食えるものね。先ず、ニュースそのものが疑わしい。が、某TV局系列の紙面でも大々的に取り上げた。次に、では、『ユダの福音書』なるものが今頃になって、何処経由で。その某TV局が、数十年来、ルネサンス期の巨匠たちの作品群とその修復過程をばカメラで撮影取材。そのカラーが、鮮烈に視覚に残像。それらの実績と関係から、スクープを得た。
[聖書]にも、「ユダの手紙」は短いが、ある。それは、主を裏切った彼とは、別人だ。その当時、その名は比較的流行っていたらしい。すると、大騒ぎするは、残るは彼しかいない。銀貨30枚で、主を売ったイスカリオテのユダだ。
それでだ。その当の本人が、下手人が自ら裏切った後で。そんな物書くだろうか。余暇有るの。
東日本大震災】以前だったろう。しかし、【新潟中越地震】と、続いた【新潟中越沖地震】よりか、後だったような。[余震列島]が面前で。天変地異だよ!!
その後、『ユダの福音書』、そして『マリアの福音書』等。どう結論され、どう扱われたか。頭が回らない。賃貸のワンルームで、揺れる睡眠中、震える脱出。その予感と恐怖でいっぱい。
でも、『ユダの福音書』がまかり通る御時世なら。それがらみで、先に、あのクジに当たった彼の方だろう。
マッテヤの登場である。もうひとつ、『マリアの福音書』にては。それに軸足がある、カトリック教会にお任せしよう。とにかく、我がマッテヤで行く。これが問題だ。