かいふう

近未来への展望や、如何に。

「確率論者」はそれでも、天変地異で括るべきか。

大阪府北部地震(暫定)

先日の大阪府北部地震(暫定呼称)の被害者のひとりは、小学校に通う児童生徒であった。登校時の被災であり、しかもその時間の指定は、役廻りの順番で、少女はそれに従ったまでである。現在も六年制ならば。9歳は、高学年か。だが、その年齢で、天変地異なるもの。何処まで把握、想像できようか。それも休日等本人の自由意思や希望で外出する訳でもない。義務教育の一環で、早番通学の途上の最中。まさに天変地異に遭遇した。地鳴りがあって、見上げる間もなく、まさかの壁崩壊で、打ち倒された。故に、預かる学校側に、責任の所在なるもの。問われて、調べたら。出て来たのである。大人側の不正が原因だった。で、表題の社会と公正に帰するを、可とした。
TVでエンタメ系の方が、同じマスコミという意識で、被害者個人周辺への取材攻勢を批判していたが。ネタが葬に係る事だから。
それでも、私個人は、やはり載せる事にした。ささやかなブログで。しかも、本人除いて、不特定多数の読者、何人居るんだ。日々是起こる事件事故。微細な記憶でしかない。それこそ、「或る」を自称してでも。『忘却』より益しだろう。意識して、記憶する、のだから。
その対象が。分別盛りの大人で、自己犠牲も構わず。他者に代わって、落命したなら。超美徳と、褒めもしよう。ひとり拍手もしよう、気が済むまで。
しかし、この子は幼い。美徳の領域も、犠牲を使う時も。未だまだ知らないはずだ。それでも、行ってしまったのだから。
途方に暮れている。しかし、何時までもそうはイカンだろうから。主観では[エマオ]への途上あたりか。三宅璃奈、9歳。