かいふう

近未来への展望や、如何に。

国策にかかわる、残留組VS転出組

国会議事堂

再三、思い出すことがある。そこは、某都道に合流する、これまた通り名が付いた道路。その道路に並行して、区道たる遊歩道があった。この遊歩道は、散策するに適して、一度、「底辺の美学」等の著作がある、白髪の松永伍一さんを見かけたことがあった。近所の居宅も知っており、時折散歩で、二階の書斎で電灯下、どんな作品を原稿用紙に書いているやら。
その遊歩道と、通り名が付いた道路の間。約100メートルを越えて、住民の各戸が連なって。一戸建てやら、車庫付き二階のアパート、庭に看板の日本謡曲の家。会計士等の看板の自宅モルタル造り。そして、合流間際に小さな鉄工所。モルタル造りは、見た目。築10年程で、後四半世紀は大丈夫。終の住処と呼べる物件である。それでも更地にさせられる訳だ。とてもプラス思考の光景ではない。平穏無事が壊れていく。
その遊歩道を歩く度に、一戸一戸と消えて行く。その様は、最寄り私鉄の主要駅からの都道とのT字路バス通りの。国策に被る一帯の「通すな外環‼」の旗々に象徴されてあった。
「無駄な抵抗はやめて、出て行きなさい!」との拡声器の声は、聴かずに済んだが。まぁ、お上の御意向に逆らわず、金銭的決着をみて。各自決断、との事だろう。と言って。移転先が、万一例えば【東日本大震災】だったとして。誰も、お上も、担保しない。転居したは、事実。私流のもの言いは、追い出されたが真実。この無言の立ち退きは、空間が広がるは、何とも殺風景、そのものである。都から借りてるという区の遊歩道の雑木林、判断での伐採。
せずに済むという残留組。と、せざるを得ないと想う結果転出組。その意思と情報の、乖離疎通は免れない。誤解、思惑も生じよう。引っ越しとは、やはり大事なのである。

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三里塚闘争」の、成田新空港滑走路に、現在も二戸の農家が頑張ってる。こう書くは、もう半世紀ではないか。未だ、闘っているのか。似たような経験すると。共感できるからである。最も、彼らは体験。その差は歴然である。まさか、巨大な旅客機が、数分を置かず直ぐ上を飛来するは。家屋の窓ガラスをキーンという激音で破損するであろうから。せいぜい納屋か物置が日常。田畑の野菜に、騒音公害は無用。耕作人が、農業やりたくて。なら、先祖代々のそこで、は極自然な流れ。強制代執行の国家権力に、抵抗の論理が、あらがってある。しかし、こんな消耗戦、誰が個人が欲しようぞ。