かいふう

近未来への展望や、如何に。

ある時代

 

 改元の季節を迎える。

前回は、小渕官房長官が会見場で、色紙を見せて。「平静です。」と落ち付けて。落ち着いていらっしゃった。その前、即ち「昭和」の時。知りません。そもそも、その当時。官房長官という官職があったか、どうか。枢密院あたりか。

それで、私。後にも先にも。己も頭で考えて。今回切りではないか。公募ではないから。別に金一封ある訳でもなし。

それで。然らば巷間では、どんなのが流れているか。気にする。爺だから。

数週間前、ネット上に、歴代の候補年号。漏れ残ってる分、開陳された。それに加えて。勿論、「明治」から、「平成」は無い。「昭和」あっての「平成」だったろうから。平和というつながりで。すると、今回は。

何せ。半世紀は、いや、それ以上持たせなければならない。その響き、その見た目の字体が、国民の日々の日常に、安寧と意識をば、定着し得るものでなければ。

 博識の有識者連が、然らば。出典を何処に求めるや。つながりが終えたのだから。

もう中国の古典止めて。いっそ、「古事記」、「日本書紀」ってどう。国学で行こう。

本居宣長賀茂真淵の著作に見当たらないのか。勝手なこと云ってます。

探してください。

そう云えば。巷間に、『文光』を云う輩が出た。文学部出か。それとも、半島系か。

何も、某現大統領と歩調合せるこたぁ、ネー。ここでも、すり込み洗脳かね。疑うね。

外れる、を願う。はっきり言って、『キムチ臭い』。

もう、輩どもの『キムチ臭い』芝居、うんざりなんだ。

毎度言うが。鼻つまむ片手があれば。盲人の手引きも、車椅子押すもできるではないか。