「 戦艦大和」の映画を観た、を思い出した。
監督は、今知った。阿部豊。彼の映画は、その内容が教育的だったので。そういう映画を観て、覚えていた。自宅から北の、道路に面してその表札を見かけたが、本人宅かは確認せず。しかし、少年が記憶は、銃弾飛び交い砲火轟く中、指揮棒振るう将兵高島忠夫。
最終場面で浮遊する板端から力尽きて手を離し、海中へと沈む副官船橋元。
勿論、黒白画面。知らない少年が、眼前で観るは、驚きなのだ。
それが劇映画なのだ!!
最近見た写真の、呉ミュージアムでの十分の一の模型の、何たるちいさい物か。
でも、脈々と。その当時の技術の粋は、形を残す。
そして、DVDでも残す。
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知らなかったエピソードを数知った。
出港して、索敵され、開聞岳沖を佐世保方向へと。しかし反転して、作戦任務を遂行する。途上、海外から帰国の艦船にすれ違い。声援に、「アリガトウ 我レ期待ニ応エントス」と打電する。
当時世界最大の46センチ砲を抱えながら。その威力を示す機会は未完。そもそも、この大日本帝国海軍最後の海戦が、沖縄の海岸に座礁を覚悟の弾尽きるまで。
レイテ沖海戦で、僚艦武蔵を失うも。見誤ったとはいえ、敵護衛空母艦隊に主砲を浴びせ。空母の側面から風穴を開け、向こう海面で爆発。その沈没せる敵将兵が浮遊のそば近くを、決戦場へと航行する。
3月10日の東京大空襲等おもえば。残存兵への処断、如何様にも。
しかし、主戦場への途上。海面漂う敵兵は、構わず。彼らは泳ぎながら、その巨艦の威容を頭上に見たのだ。
その時のずぶ濡れの負傷兵たち。戦後、その九死に一生の武勇伝。息子孫等に語る時。
あの時の戦艦の乗組員たちのほとんどが、その後戦死した。それも知ってただろう。