マタイによる福音書第十一章28~30
邂逅する。T会長の、ふたつの『遺言』なるもの。
ひとつ。「正義と、正義感との違い。」
私は、体験と経験の違い。それを陳述するは、するけど。
私財を投げうっての、献堂。それは、それを為し得た信者が、信仰の証であろう。
その教会在っての、儀式であり。それで自ら新しい者に生まれかわったのであれば。更に、その栄光と祝福を。そこに、それを可能にする教会。主日礼拝ができる会堂が在る。それを、近隣住民に知らしめる。それが、信じる者の務めであり、故に布教する。
布教するに足る教会が、既にあるのだから。
この場合、正義とは、布教に従順な信者であろう。
正義感とは、無償でも、有償でも。ボランティアかも知れない。
教会設立の立役者、会長がその信者に、布教するを優先は至極当然の発言である。
「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
私も、それに倣った。
T会長は、その持てるタレントを、エンジニアとして果たした。戦時下の困難を耐え忍び。能力をフルに発揮して。企業を興し、特許を得て。雇用を確保し、係わる産業を
隆盛させ。他の労働者彼らのタレントをも花開かす機会を創出した。
教会という共同体。その在り方は、依って。集う信者各自が、それぞれ異なるタレントの保持者。それを痛感する場所でもあるのだろう。
主任牧師も言われた。△〇▢〇。まさに、痛感してる。
而して。現状は違う。ならば、その労力を何処。どの辺に向けようか。
決して。皮肉や卑下では受け取らぬ。
寧ろ、彼らの言が、的を射てるならば。
私は、わずかなタレントを持ってしても。それをば証明せねば、ならない。アーメン