かいふう

近未来への展望や、如何に。

『ヨハネの黙示録 第二十一章一〜四』/前世紀では『マタイ肩車外伝』、今世紀では【トマス外典】肩車に同様、の某団体/悠秋十三金/「藻くじログ」/新年の発見、それは/新年の発見、続それは/2010.4.4/道端の添花/ペンテコステまで、その1/ペンテコステまで、その2/ペンテコステまで、その3/ペンテコステまで、その4/ ペンテコステから、その1/ ペンテコステから、その2/ペンテコステから、その3/ペンテコステから、その4/「地の塩、もしくは梅干をなめていけ」

kaihuuinternet2009-09-13



「復元 単立イエス・キリストの教会」の某日の礼拝は、
さようなものである。
 賛美歌 444   頌栄 539
 詩篇  
「神が人と共に住み」とは、信仰の奥義。
 毎日が決断。純粋性を保つ勇気。
 何ものも恐れない、御心じゃないことは、断固拒否。
 『先のものが、すでに過ぎ去ったからである』という断定。
 十字架の道こそ、恩寵に対する。
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メモ書きですので、断片。
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このブログ、「藻鯨ログ」という表紙だろう。ごめん、後日訂正しました。
 『黙示録』と、韻を踏んでいる、ユーモアとして、受け取っていただきたい。
やはり、「単立 イエス キリストの教会」の会堂写真、掲載に拘っている。
 再度述べるが、それは、クリスチャン史の証でもある。
 そう信じる。
先日、この教会のかかわりある方へ、連絡とろうとしたが、できず終い。
3人に、三度断られた。あぁ、ペテロの気持ち、だな。
『何時、汝口頭試問(シモン)ペテロよ』
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ぼくは、一葉の写真の力をも信じる者のひとりだから。
樋口一葉さんが紙幣印刷掲載は、彼女の文才と病死への愛惜。
それで一枚と呼んでも、かって、水俣の被害少女が母と湯舟にいる写真。
この国の女流が撮られたベトナムの少女。
そして、若くして事故死した俳優の憂愁。
あるいは、戦場で撃たれた瞬間の兵士の倒れる。等々。
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それで、一葉の教会会堂全景、がブログという小冊子に載って残ってもいい、とおもう。
その判断さえ、人におもってはならない。ならば、ひとり決断するしか、方途は他ない。
御心にかなうよう、お導きください。 アーメン
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昔々、「マタイ伝」を開けると、何度か、「(読者よ、さとれ)」という語句と遭遇した。なぜ、ここだけ、括弧付きなんだろう、と。
昔々、新大陸で、伝統と由緒ある野球場を貸し切って某団体が宣教集会、をニュースで知った。
それから暫くして、その某協会の教祖が、脱税事件で、刑務所に入る、をニュースで知った。

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   『脱税し ムショに入って メシアだと』   豆人

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昔々、新大陸で、戸別訪問で卵を売り歩いていた若い女が、その家の主に殺された、をニュースで知った。
それから暫くして、その若い女は日本人で、その家の主はベトナム帰還兵だった、をニュースで知った。何故か、その被害者の名字だけは憶えている。
その被害者の所属団体は、伝統と由緒ある野球場を貸し切って宣教集会をした、まさにその同一団体であった。
未だ癒されぬ傷病兵が、自宅玄関扉を開けたら、戦ったベトナム人と容貌が似た顔つきだった、は情状酌量の余地はありそうだ。しかし、彼女はそこで終えた訳である。

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彼女の信仰が、若さ故の、夢想だったのであろうか。
戦場で戦友を失い、建国以来の負け知らずが、傷ついて帰った国でも疎まれて、孤独と焦燥に、黒髪黒目の女が我が家の玄関に立ち、よりによって、卵をどうぞ、だなんて。
敷地内の、リアクションは、彼の主観である。戦場を通過した満身創痍。
彼は、「ジョニーは戦場に行った」のジョニーではない。

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ダルトン・トランボは、確か、「ジョニーは戦場に行った」の監督ですよね。この映画、カラーで、しかも実話だから、観ていても、つらかった。戦争の悲惨と、兵士の過酷を、よく表現していた。
時は、第一次世界大戦。戦病死者の数からいうと、世界戦史で他に比べようもない、近代兵器が暴れまくった戦場ではあった。
彼だから撮った作品だ、とおもう。名脚本家だからこそ、そこに横たわる、もはや人とはおもえない、それでも生きつづける傷ついた個体に、セリフ無しの劇映画に、反戦の旗印を掲げさせたのだろう。究極の、到達地。
これを世に送り出し得たのだから、やはりタレントをよく使い切った、と言わざるを得ない。

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あの戦場を知らぬ若い女が、卵を売りつけようとしている。怒りがリアクションに変わるのは、戦闘を覚えている身体には、即座だったろう。

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落差だ。
この事件。しかも、殺人にまで至ってしまったのは、とてつもない、真空が介在した、落差だ。では、その真空と形容されるものは如何様なものか。
認識不足。誤解。ごく日常でも使用されるけれど、やはり、この件の両者には、それがかなり在る。
たとえば、語学力。卵というは、物体だし、見てすぐわかる。英会話なくとも。
たどたどしい会話でも、それが愛嬌にみえる場合と、からかいに映る場合もある。
その落差を埋めるのに、時間を猶予を、持ち得なかったのだろう。元兵士の方が。

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惜しい、とは、ひとりの日本の若い女が、生命を失くした、ことであろう。
で、その某団体が、そんなノルマを何故彼女に課したか。
事件の引き金になるような、そんな初歩的な、卵という無邪気な訪問販売という仕事を。

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刑期を終えるまでの者と、そういう彼を信じる卵を売り歩く若い信者と。この落差も、かなりのものだ。
両方の事件には、時間の隔たりが在るのだが、某団体が共通項であるのは、間違いがない。
彼女の信仰が、若さ故の夢想だったのであろうか。
ならば、その日の前日、何故、無残に終わるであろうに気付いて、それから離脱しなかったのだろうか。

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「真理は汝を自由にする」 聖句のひとつ、であろう。

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前世紀の遺物は、すでに減価償却した。
その者は、面が割れて、それを支えて、正体がばれるのを、かろうじて、後は自然消滅、の境地に来た。

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新世紀を迎えて、幾年も経た。
ならば、前世紀の遺物に固執して、あの落差極まるノルマに、あの彼女と同じ窮地へ自らを誘う某団体には、もはや近づかないのが、賢明だろう。
敬遠しておけば、後は自然消滅、の範疇が相応しい。
それとも、新世紀の光を浴びてなお、世が平成に代わってもなお、
盲信するだけの軽きくびき、に追従するのか。未だ、また。
止めた方がいい。
要らない寄り道はしない方がいい。しなくて済む苦労はしない方がいい。

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自分も、【トマス外典】は読んだ。
だから、正典の中にある、主が言われた「見ないで信じる者はさいわいである」の
真意は、盲信して、そうでない者を誤信するのではなく、それに追従する軽きくびきに甘んずるのではなく、むしろそれらから脱出して、迎えた新世紀に相応しい生き方をすべきだろう。
その決断を促している。

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あなた方がどのように受け取ろうと自由だが、
自分は、その某団体を、『ベニヤ製倒間棲肩車キムチ漬儒教混合協会』と呼称。
そのスタンスが、自分の結論。

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ここは、自分の主観だけれど、『ヤマトナデシコに告ぐ』
たとえば、戦艦大和、武蔵に乗り組まなかった輩どもが考え付けた、
被せる、虚構の宗教に。
そんな者どもを、ゆめゆめ、乗せちゃ駄目だ。

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この国のヤマトナデシコが、エマオを知ることがあっても、
もはや『ベニヤ製倒間棲肩車キムチ漬儒教混合協会』に吸い込まれるようなことはないように。
自分は真面目です。笑われても。ちなみに、こちらは、福神漬が好きです。
御心にかなうよう、お導きください。 アーメン
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ポーランドの国民的なアンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」。
太陽の光の皆無の、しかも汚臭漂う地下の水道で、地上の侵入者に最後まで戦闘を続ける。
それは歴史で、当時同盟国が地上側であることを知ったことで、痛恨でもありました。
特に、マンホールを上り出て、ナチスの鉄兜を被った敵兵に捉えられて、地上の壁向きに立ち並んですでに投降した部下たちを見た隊長の無念の嘆きを、そのワンシーンを、忘れることは無いでしょう。
この映画は、それを作った人びとは、意識しなかったでしょうが。
時代と地域を超えて、観客に、ある懐疑を解く、比喩を与えたかも知れません。
この映画の場面は、解釈は容易です。神学的にいうなら、サタンが、隣国に侵略し、地上の衣食住を破壊し略奪し、平和な暮らしの善良な市民を光の届かぬ地下へと追いやり、生存の為の必須条件を得ようと、また地上に這い上がってきた彼らを、一網打尽に捉え、殺戮抹殺したのです。これは、東の国の、絨毯爆撃により壊滅した列島首都と、匹敵する規模の人口損失でしたでしょう。
そして、はや60数年。
東の国の、列島各都市にも、そういうような状況、すなわち、こちらは、地上と地下ではありませんが。奪われた光と闇ではありませんが。
{虚構の宗教}でもって、その列島国民を配下に絡め取ろうとする輩が、現れ、しばしの間、被さって、捕えた。
しかし、世紀は改まり、その輩の正体が、もはや暴露されつつある現状に至り、列島国民は、その被せた網目を、たとえば冷凍秋刀魚で切り裂き、同胞を解放せねばならぬでしょう。
領域を、先程のヨーロッパに習い、神学的にいうなら、{虚構の宗教}擬似者が、いよいよその正体を暴かれる時が満ちたのです。
もはや60数年。それだけ経れば、それは、この列島国民にとって、もはや、{変形無理心中}同様。

平和な時代、その惰眠を貪る者に、{虚構の宗教}擬似者が現れたのであれば、すでにその眠りから醒め、覚醒した者たちは敢然と、{虚構の宗教}擬似者に対峙し、これとのなお続く残りの闘いを、受けて立たねばならないでしょう。なお備えねばなりません。
それを、人は何と呼ぶのでしょうか。
半世紀以上前のヨーロッパ戦線の、まさに、地下から戦った彼らの、それと同じものではないか。あの時は地上のサタンと地下のクリスチャン。
当節、某半島からの侵入{虚構の宗教}と、対する覚醒せし防衛守備隊。
皆さん、もはや、それら、すなわち某半島からの侵入{虚構の宗教}に捕縛されることの無き様。  アーメン
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本年、晩秋の金曜日は、その最後の13日でもありました。
先日、封書が届きまして、開けると、チラシがあり、「シャローム! イスラエル 2009」とあります。
同封の記載には、先年開催の、日本・イスラエル国交樹立五十周年記念の会合に参加した経緯があり、《共催》には、この実行委員会、そして社団法人日本・イスラエル親善協会、とあります。
思い出しました、曽野綾子さんが講演の。今回はその記念講演、イスラエル親善大使は山谷えり子さんであります。
祝賀メッセージは駐日イスラエル特命全権大使があります。
続いて、キブツ・アルツィ合唱団の公演もあります。
チラシの裏面が入場整理券の申し込み、今日は当日。あきらめることにしました。

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同日、洋上を越えて、隣国大国の大統領が初来日しました。
皇室との会食で、好きだと言った抹茶アイスも召し上がって、この国の新政府とも、洋上給油の換わりにアフガニスタンへの支援金を数千億超確約して、翌日離日した。
ちなみに、その国に対する、この国の「思いやり予算」も数千億規模だそうです。

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二つの事を、どう意識するか。しても、それが何になるんだ、と言われれば。
しかし、無関係では無い、と考察するほうが、安心します。

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先日、気仙沼水揚げの秋刀魚を買った。小ぶりだが、五尾で百五十円であった。
その大きさが、はるか昔、〔回天〕という兵器で、鉢巻ひとつ短刀ひとつで往った若者が携えた品、と重なった。
三十円の品も冷凍すれば、短刀になる。
食した前後、正当防衛の精神、あくまで気構えだよ。

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その気持ち、わからない訳ではない。
自分も、その国に行きたい、とおもったことがあった。
あの吉田松陰でさえ、あの時代国禁を犯してまで、渡航しようとしたのだから。
そして彼は時の大獄の犠牲になった。
ならば、今のこの国の若者が、同様にその国に行きたい、とおもっても。
自分の時代、為替は固定相場で、三百六十円。
今は、その四分の一。間違ってなければ、自分当時にすれば、海外旅行は、四ヶ所往けるんでないの。
でも、そんな魂胆で、たとえば本部が大陸にある宗教に入信するんだったら、論外だ。
言わんとする事は、母国語粗末兼外国語優先主義者がはびこる、は御免被りたい。
本当に日本人か、と疑わせる発言をする若者、いや曲者が居る。
したければ、勝手に帰化するがよかろう、この国でない、その国で。何もこちらに当て付けてから、は要らぬ世話。
だから、在日か。それも半島か、そこ陸続きの大陸か、と連想してしまう訳だ。

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ここで、私的新大陸クリスチャン史概説、を述べさせてもらおう。
キーワードは幾つか要る。
「統治なければ課税なし」、これは高校世界史教科書にも、すでに1965年に、太字印刷で載っていた。ボストン茶会事件、と呼称される。メイフラワー号に清教徒たちが乗船、東海岸へ到達した。そして、この事件から、本国英国との乖離がはじまる。独立へ向けて。
大洋を命懸けで、たどり着いた大地で開墾し、作物を植え、収穫をして、大海の向こうから、税金送れ、はないよね。『ふざけるな!!』だよね。
「アラモ砦」、ウィリアム・トラヴィス、デヴィー・クロケットも参加した、ローンスターのテキサス。米墨戦争で、更にカリフォルニアもニューメキシコも獲得し、サン・アンドレアス断層の西、太平洋岸まで治めるに至る。幌馬車連なる西部開拓史。ジョン・ウェイン製作・監督・主演「アラモ」の「テネシーベイビー♪」はよく聴いた。
新渡戸稲造国際連盟事務次長の時、人種差別法案を、時の議長だかモンロー自ら反対し、「モンロー主義」とした。それでも独参戦で、第一次世界大戦に突入。

半隷属扱いの、天文学的支払い賠償金を課した大戦戦勝国仏が台頭独裁者とその差別思想に占領され、旧ソ連をもの第二次世界大戦、方やABCD包囲網で資源枯渇まで見て、太平洋岸対岸までの戦略を、新型爆弾の複数で決着とした。

サンフランシスコ条約と、国際連合加盟により、GHQは帰還し、日本国は独立した。

だから、わかりそうなものだけれど。廃墟に黒焦げのマリアの石像も、戦前から、そこに教会が在り、祈りの声が響き、あるいは建物石段の兵士の蒸発跡の影も、ドーム端河岸にも、幼い子らの声が橋から聞かれたことを。

被爆癒されなければ課信なし』

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おそらく、彼らの記憶というものは、「グラウンド・ゼロ」から、なんだろう。
だから、その地には拘るが、この地球の、ならば他の土地とか地域はどうか、という発想が無さそうだ。
平成は記憶の内だが、明治大正昭和、が欠落しているらしい。
歴史は連続している、ものですけれど。
故に、当方が曲者扱いしても許されるであろう彼は、己の事だけまくしたてて、相手には、壊した母国語を投げ付け、去る。
[聖書]片手に、ページ開いて、そうする方が、上だと、勝手に布教もどきを吹聴して、捨てゼリフの母国語ったらない。聞くに耐えない。
彼は日本人では無いだろう。ああやって、布教を装い、母国語日本語を壊せ浴びせて、消える。
大陸かぶれ、というか。二度と会いたくない。最寄の交番にも、運がよければ、クリスチャンの警官が居るやも知れぬ。
彼の発した聞くに耐えない日本語は、[聖書]でも禁句だから、もう会う義務も理由も、そして意欲も当方持ち合わせないだろうけれど。
いち度だから許す、という、こちらの寛容である。

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Wikipedia:秀逸な記事」に「キリスト教」が載っていた。
それで、調べるに、分類、系譜がわかる。
違うものは、違う。それを確認する作業が要る、という事だ。
すでに確認した。

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昨日、ラジオでNHKTVドラマ「坂の上の雲」のプレ番組を聴いた。音楽で綴る、とあった。音楽はとうに国境を越えているからでしょう。
やはり、この番組見逃しはできぬだろう。そして、再度考えよう、この国の歴史を。その時からの百年を、追憶もし、邂逅しよう。
そして、この国の背骨すなわちバックボーンを、明治大正昭和とたどって、現在平成につながっているものを探し、見究め、曲者でない、若者と共に語り合おうではないか。
さすれば、未来は見えてくる。

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見出し、に曜日は足しませんでした。どこぞの輩に誤解されたくないので。
御心にかなうよう、お導きください。 アーメン     2009.11.15
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水産庁は17日、反捕鯨団体シー・シェパードが、南極海の調査捕鯨団に対して、ロープを海中に投げてスクリューにからませようとするなどの妨害行為をしたと発表した。

妨害されたのは、船団で同団体の監視業務を担う第2昭南丸。スティーブ・アーウィン号が同日午後(日本時間)、約200メートルまで接近し、ロープの投げ入れのほか、緑色のレーザー光線を照射したりした。(2009年12月18日読売)

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このブログ印刷するならば、{藻鯨ログ}としていたが、冗句もまずい。不謹慎だろう。
それで、「藻くじログ」がベター。
環境汚染が叫ばれる中、海洋でも、体内蓄積する化学成分、ある番組で、残留濃度が、くじら6PPM、まぐろ1PPM、たい0.5PPM、あじ0.1PPM、と解説を聴いた。
鯨肉がそんなにPPM濃度が有るなんて。
もう、戦後間もなく、大和煮カレー味缶詰で満喫した世代は、ならば他のあじの開きにでも替えた方がいいのではないか。
くじ、は、それに当たったマッテヤ(マティア)だから。この線は変えない。

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NHKTVで、気仙沼漁港に、台風などの避難で、カツオの一本釣りなど全国各地漁港の漁師たちが寄港する番組を聴いた。
夜明け前後の水揚げから、朝の銭湯、パチンコなど、そしてスナックなど酒場と、久しぶりの陸は、銭湯のお母さん、日用品コンテナのお母さん、そしてほろ酔い気分でお姐さんと、歌謡曲♪だね。
先日の、乗組員9人死亡、7人不明の事故の話題も未だ失せない。
大海原を職場に選んだ彼らの、破天荒な木の葉に揺れる日々もあろう、を想うに、
真似ができない。直に大自然だからね。
インドネシアからの学費稼ぎの若い研修生も居る。船内の更に狭い居室で、インターネットで故郷と会話する。

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別番組では、伊豆半島のとある数軒で、代々続く鰹節造りを聴いた。
学会権威の人が相好くずして、発酵食品としての鰹節の極上の仕上げ工程を解説、作業現場親方と楽しくて仕方ない、開陳披瀝をしていた。
30gなど、一回分でっせ。高級品でっせ。分けて使っとりますがな。
此の頃は、発酵食品に目がない。

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「藻くじログ」をあらわす者とは。
先日の某テレビ局番組で、気持ち、は少し、という意味でも用いられる、とあったから。
あと、血税けつぜいと喚くから、その筋に近い者なんだろう。

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「英霊」とされる方々にも、再掲ではあるが、ふたりの人を、クリスチャンとして、受け留めている。ここに、その名は載せない。
ひとりは、母親と子二代の人である。
もうひとりは、「マタイ伝」から引用されて記載された。

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「復元 単立イエス・キリストの教会」にて
会長は、終わり近く訪ねた折、『否定的だ』と答えた。
その意味を、解こうとしてきた。何だろう。
そして、出した結論が、おそらく、こういう事ではないか、とおもう。
『教会は、地域に在るものだ。その周りの家の人びとを、教会に呼ぶ為に、布教する。だから、その本分というか、基本をないがしろにして、たとえば被爆者の事とか、離れた、かなり以前の問題には、かかわる順序が違う』
牧師は言われた。『海千山千』
自分がつくった音楽テープ。その中の詞に、そのような部分があるのだけれども、
同曲の中の別にある詞を、改訂する前のそれを手渡した後日のことであった。
長老貴姉は言われた。『細々とやってます』
インターネット教会で誘ったら、断りと共に返事された。

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現在、ここには、被爆者の事、も載せて来たし、この国が法治国家としての回答を、彼らに出した、その事までも載せられるようになった。
音楽テープ、その中の詞の改訂すべき箇所を、そうした。
そして、これも、細々とやってきた。

世代の違う彼らは先に往き、年代の違う者は、別れた。

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さて、本年もクリスマスを迎える。
何をバトンタッチできるのだろうか。
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わたしは見た。未だ、言えない。
確認した後、述べることにしよう。
 
彼らの遺言と取れる言を、解ける時が来たかも知れぬ。
さぁ、密かに静かに、それを確かめに行くことにしよう。
若い彼らを見るだろう。
そして、わたしは彼らに問うのだ。
真実が開かされたなら、然るべきものを、彼らに手渡すか否か、
しばらく考えよう。
わたしは老いてある。力尽きる前に、若い彼らに、手渡すものを、預かってきたのだから。
その未来に燃える熱情に、真摯に、潔さに、
手渡す彼らが居るを見て、打ち震えるだろう。
このひそかな喜びこそ、我が孤独を支えし、賜物なるぞ。

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なーんて、少女アニメの原作、書けたらなぁ。

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乞う、ご期待。往って、見て来るのだから。

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往って、見て来ました。
どうやら、違う様です。
『それで、どうした。だから、どうした』と云われても。
チャリンコ巡回の警官にも、声掛けられる始末。
皆さん、日没後は他人の家屋周辺をうろつかぬ様。
動転してたのは、往く時です。メーターの赤ランプ点灯に、交番に駆け込み、そこで聞いた最寄ガソリンスタンドで、オイルの補充を頼んだら、すぐ満タンになり、給油したスタンド従業員は気付いたらしい。補給量を聞いたら、やっとわかった。
スピードメーター、とオイルメーターの見間違え。老いる目だ。
それで、せっかく足したのだから、と日没構わず目的地へ。
敷地囲いの金網に雨避けの掲示板。それを和製マグライトで照らしてメモ書きしてたら、若い警官が白いチャリンコ留めた。
毎度、公務員に職務質問されたら、逆に国政やら、都市の工事やら、訊いてやる。
納税者は、強気でいなきゃ。
たとえそれが、既年度分の確定申告書を貰いに行った、そのついでの職務質問であってもだ。収め過ぎた、その返還の申告書であろうとも。

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端的に答えて言えば、組織形態と、教会風が違う。
某大陸系らしい。「コミュニティ オブ クリスト」とある。
これを、この国の呼び方に訳すると、『復元 イエス・キリスト教会』と相なる訳だ。牧師は、日本名だから、そうだろう。翻訳する、ということの微妙さと重大さは、同時通訳の会話のみではなかろう。
しかし、彼の名は、洗礼名だろうか、某大陸の、名のある空軍基地と同じで、それに彼の日本名の名字が連なる。通園幼児に、英会話教室もあり、だろうな。
それで、納税者は即ち、権利を行使者でもあるから、間髪入れず、公的機関に電話して、尋ねた。その回答は以下なるものである。
法人認証の要件は、会員50人以上。用地取得。文科省の附則事項をみたす。
そして、3年間の実績。
なるほど、我が教会と、ここの教会とは、教会名が、わずかに違う。
その相違は、我が教会は「単立」が付くが、こちらの教会はそれが無い。
呼称のキリスト教会の、キリストと、教会の間に「の」が付くか、否かの違い。
我が教会の玄関の、その看板に「・」が有無は、もう記憶ないが。
それにしてもだ。非常に紛らわしい。
喪失と、紛失は異なるが。我が教会は喪失したのであり、こちらの教会は存立してある。
ここの教会は、幼稚園も併設してある。会堂とおぼしきは、別棟で、園庭の奥に数階建ての園舎があって、どう見ても、幼稚園の方が先だな。
そのことも、電話の先に訊いた。都庁の担当窓口であった。
「アニバーサリー50」と円形の表示板があり、設立年月日を聞いたら、昭和37年3月だという。あれっ、計算したら、今年は、未だその周年には足らない。
まあ、3年間の実績、のそれは今後も続くだろうから。どう見ても、その教会堂は、築50年には見えず、途中増改築したやも知れぬ。
はじめ文科省に聞いたら、全国複数登録ならば、国家機関だが、そうでない場合は、即ち単立は各都道府県で、との事。
決して事件記者の心算で訊いてはいない。ブロガーの心算。
では、何故、我は溜飲が下がらぬか。どうして、怒りが収まらぬのか。
この眼で見た喪失は、否定できぬ。で、それ以外、紛失した、会員同志、彼らの所在が、居所が判らぬ。それが、癪の種なのだろう。
信者であるが故、かくも血相変えて、捜しているのである。
未だ棄教しておらぬ。
それに、だ。このブログは、警官にまで罵声を浴びて、不審者扱いされた、その建物の教会名の、その下請け傀儡物ではない、ということだ。
しかし、探して、見つからなくて、この大陸系、洋風教会しか、該当名の教会がなければ、誤解するだろう。新たな求道者も、ブログ読者も。
最近買った某業界地図雑誌では、「はてなダイアリー」の月間利用者数は、707万人と記載されてある。
自分は自らが、誤謬の種をばら蒔きたくはないからだ。

本当に、教会は地域、だと痛感した。

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先頃、英語がますます、この国で流暢に操る人々が増えるであろう、その辺の感触を、何時頃我も認知症、という恐怖と、相まみえつつ、翻訳癖、はそれに対抗し得るか、と問う昨今です。

「結構です」は、『ノー、サンクス』ですよね。

『アイ ノウ アイ ミス ユー』、『サンキュー、フォー ユア トラブル』、これらは、どちらも、

「結構です」を、オーソドックスに表現した場合の返答ですよね。

以前、NHKのTVの英会話の時間かで、『メイビー』、と『パハップス』との使い分けの場合を、聴いたけれど、それらには、「多分」とか「おそらく」とかが、どっちかで該当する、とおもうのだけれど。

「結構です」の際は、『ユー』の対象が、違う場合に、上記の二者択一を選ぶんだろうか。

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この狭い国土の国は、時に国策として、飛行場を拡張工事が為、その土地の先祖代々の個人所有者と対立、強制代執行を行使する時がある。
それは、国道建設、その延長工事においても同様で、その為教会会堂移転の措置もあるだろう。都の窓口も左様に、代替えを確保、と回答した。
現に、首都圏、『通すな外環』、即ち外郭環状道路の建設においても、例外ではない。
この度、政権交代与野党逆転として、この案件、60億の予算は凍結された。
建設予定地住民の方々、しばらくは安堵されるであろう。
すでに関東平野北部においては、複数自治体をまたいで稼動している交通動脈である。
地産地消の農地のみならず、閑静な住宅街も、たとえ地下40メートルの深度の国道工事といえども、その地上部の『外環の2』については、都市計画は都の管轄としている以上、設計及び測量の予算は確保された、と聞く。

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我が教会も、当時その都市計画の地図上に在った。
最近の、最終地図で見れば、『お化け煙突』建設予定地の数十メートル範囲内にあった、ことになる。
今回の国策と、我が信仰の対象としての会堂の喪失は、因果関係は見当たらない。
だとするならば、紛失したものは、何だ。
何に紛れた、というのだ。
それも、これも、自分の非力、無力の為せる、だろうからか。

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地図には、この教会以外に、カトリック、そしてもうひとつの教会も載っていた。
昔々、この地域の教会に跳び入りで、しかも教壇で「エマオ学園」の話をする破目になる、日を思い出した。
この近く、「友愛十字会」の社会福祉施設が在って、その絡みで、思い立ってのことであった。急遽、遠路からか、の客人を使用してくれた訳であろう。箸とお椀で昼食をご馳走になった。集会後、その中の、福祉施設絡みの二人と、商店街の喫茶店に入った。
その時の教会は、戦後の混乱から、ひとつになった教団組織で、地域の町名を冠した教会だから、上記もうひとつの教会でもなさそうだ。
宗教法人組織と、社会福祉法人組織との、地域密着型の典型かも知れない。

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この近くには、もうひとつ在る。
「オートバイ ララバイ♪」のモデルの若者が通った母校がある。
オートバイで通学した日もあったろう。
自分に無いタレントを保有した者の、若い日の死を悼む。
『十年あれば何でもできる』と彼に豪語した者が、ちいさい唄ひとつ残せない、ではクリスチャンの面目がない。あれは嘘だった、では済まされない。

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先日、この地方自治体の記念日に、その役所で道路名を訊いた。
通称道路名であって、区から市へとつながっている。
再度後日訊ねると、その管轄は、別の通称道路名であって、郊外の市から区に隣接する市までの区間であって、盲学校前に在る道路は区道
その盲学校が、新校舎建設の立て看板に、設計責任者欄、見たのは、上記モデルの若者と同じ名字であった。彼の兄貴かも知れない、と思った。
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これは、想像です。当たってるかも知れぬ。そうでないかも。
その教会でのある会員のオペラ仲間か知人が、喪失した教会の会員を受け入れるか他の事由により、その名を付けた。
でも、それは、自分には、ならば、『有名無実』にしか映らない。
枝分かれした、散り散りになった会員たち。その分派が、その名が消えるのを惜しみ、内実が異なるのに、名だけ残して、移し、通俗的に云うなら、吸収合併させたに過ぎぬ。
通俗的に云うなら、という形容が、もはや、遮断された訳かも知れぬけれど。
それで、『有名無実』にしか映らない、とかく云うこちらは、では、〔無名有実〕か、と問われると。
そこら辺で、足跡というか、消えてる。
もはや、継承というか、バトンを渡す相手が見当たらない。これを、答えとしよう。

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バトンというは比喩。手渡すものは、それでも在る。
それには、パワーが在る、と信じているので、責任の所在、ならぬ、所有する責任を、痛く感ずる。
宝石に、古来、人びとが、たとえば、水晶に、あるパワーが介在を、託したか、秘めさせた、その様に。
老いる者は、若き、その未来に燃える熱情ある者に、真摯ある者に、潔き者に、
託した石を、どうにかしたいのだろう。

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最近試した、インターネットのゲームにも、そんなのがあったなぁ。
白髪白ひげの老人が、宝石のブローチで幾つかの関門を、彼らの到着を待ってる風が。
すると、その老人は、緑内障だか白内障だかを、悟られないよう、彼らの正体を見抜き、それに相応しいものを、判断を違えずに、そうしなければならない。
そうしなければならない、という意思を鼓舞して、生を真っ当する決意にささえられている。
この辺りで、いいんじゃないか。
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イースターである。
本年は、何年ぶりかの、東西の教会の、同じ日の、それである。
多くのクリスチャンが、諸教会が、祈ったであろう。
健やかな者も、病める者も、そして傷ついた者も。棄ててないならば。
事故、事件、そして天変地異。
起こるものは起こる。そして、来るべきものは来る。
それらを、如何に察知し、回避し、避難するか。
祈るなかに、それらにも、が含まれていると、おもっている。
死者に勤労も納税も無い。
ということは、この国の憲法では、生くる者には、勤労も納税も、義務として、要求というか、定めている。
だから、病める者でなければ労働し、たとえ傷ついたとしても納税しなければならない。
結果、老けるよね。老いるよね。
白髪にもなろう。皺だらけにもなろう。
それでも、強制ではなく、義務として、法治国家は在る。

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{武家の商法}じゃ(ユダヤの商法)に太刀打ちできないし、かと言って「儲かりまっか」では『本音』で答えてくれないし。ユダヤ人は、各政党を通し、実は手先になってくれている彼らの足元を見ている。足元を見られている訳だろう。砂漠の民と、過酷なその足跡を侮るなかれ。
その国にとって、それは、建国以来、「或る書物」に手を置いて、営々と築き上げた、その労苦と汗の、云わば結晶たる、勝利の賜物の『作品』なのだろう。異教徒敵国が到達し得ない、文章立案で、承諾させたもの、なのだろう。だから、60年経ようが、改正欲せず。「聖書」準が優位。

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{美人薄命}とか。若く美しく死んだ者たちは、たとえば「写真」等で年取らぬ。
時には、神話・伝説にもなろう。
だから、やれ裁判沙汰だとか、老人医療だとか、煩雑やら不安などから解放されている、とも云える。
それは、更に生きていく為には、法律や医療について、皺だらけになろうとも、白髪になろうとも、勉強していかないと、それを怠ると、酷い目にあう、という暗黙の了解でもあろう。
だから、{美人薄命}でない人は、そして明らかにそうでないコースというか、ルートというか、ここだけ外国語で失礼だが、これにもはや踏み込んだ年齢の人びとは、覚悟するべきだろう。決意が要る訳だ。
これは、決して言い訳ではない。

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言い訳、と云えば
「そんな。いい訳ないでしょ」と、
「そんな言い訳ないでしょ」と、どう違うのでしょうか。
ひとりの女が居て、
二階の娘の部屋で、「母さん、やはり、父さんと一緒になって、よかったんだ」
に対しての返答。
その足で、階下に降りて来て、
夫から、「明日弁当要らないよ。旧友と久しぶりに将棋、たまには親子丼食べていいだろ。かあさんのメンチカツ、もう面子丸つぶれ、勝つでなくて」
それで、さっきの下段を返答。
以上、女優さんが連続カット、二階と一階で、言い間違えたら、言い訳ならないでしょうね。
多分、ひとりの女が、二階では母であり、
一階では妻である、ことでしょう。

この家族、何屋さんだと、おもう。警察官だとしよう。最近、一人娘が年頃か、父親は、感づいた。それで、職業柄、盗聴器を娘の部屋に取り付けた。
しかし、娘も娘だ。それに気づいた。それで、わざと、先ほどのセリフを吐いた。
そして、それを盗聴してた、駐在所の父は、妻の返事に『それはいい』と内心おもい、降りて来た妻に、管轄本署での会合日であることに掛けて、外食の提案及び愛妻弁当持参不要を述べた訳だ。
この意外な推理は、探偵役に立たない日本語。

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誰もが、有限で死すべき存在、であることを、すでに承知してきた。
故に、本年たとえば、二十歳の若者も、「新約」だけで三十歳の者も、「旧約」を読んで四十歳の働き盛りも、そして還暦歓迎老いへ未だ向かう者も、
祈るに、なんの差し障りも無い。
御心にかなうよう、お導きください。 アーメン
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先週前半、しばらくぶりに、コンビニに行った。空腹を抱えているから、やや遠くを見てる感じである。すると、前方右手に、枝葉のない白い石柱、すなわち電柱が立っている。立って在る、んではなくて、居るというは、その根元に何やら普段目にしないものが、しかも色付けされたものが映った。
歩き、近づくにつれ、それが花束とわかった。しかも、手巻きのように、各々透明なセロハンに包まれて、電柱を取り巻いている。さらに驚いたのは、それが二層なのだ。おもわず、首をひねってまで確認した。
復路、至近距離では、身体を曲げてまで、凝視した。
凝視すれば、考えるわな。
想って、その電柱が立つは、通称のある幹線道路。普段、通勤通学バスが、片側一車線幅がバス幅とほぼ同等とあれば、事故が起こっても、当たり前の狭い区間だ。
花は、いつも目新しく映るものだ。
それで、ここ数日間、他で食料確保して、その路をご無沙汰してる間に、事故が発生、関係者が花束を添えた、と解釈した。
幹線道路の歩道の電柱に、花束、である。
もう、死者が出た、と。
それで、この件、だけではないが、眠れず、夜明けまで椅子に腰掛けていた。
一週間に数度は通うであろう、道路である。
往復、数十センチで毎回通り過ぎるのだ。それで、迂回する訳にはいかないだろう。何故避けるのか。

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週末、警察署に電話を入れた。朝である。それも、当直の明け勤務の時間だろうな。疲れた応答で、平日に担当課で、であった。でも、それまで、二晩もあるではないか。

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花束の置かれた位置から数メートルに店舗を構える呼び鈴を押した。
応対に出た主人は、それは、十三回忌のそれ、だと言う。
七回忌のそれ、は承知していたが、その倍は知らなんだ。
詳しい当時の話を聞いた。それによると、こうだ。
十代の若者が、四人搭乗して、郊外へ向かった。この地点に近づき、事故現場で、幹線道路に出ようとしていた地元の人が運転の停止する車を、避けようとしてハンドルを切り損ね、電柱に激突した、らしい。散髪帰りで店手前のT字路に、事故車だけを見た、とその店の主人は話した。

それで、ここからが、老ブロガーのもはや執念、である。
それだけではわからない。誰が、では、死んだのか。運転者本人か。同乗者か。
運転者の操作ミス、による人身事故。しかも、死者まで出した。なら、あの花束の数は。
事故、と事件は違う。運転者本人の過失で、本人が死んだのと、その友だちが犠牲になった、のとでは、同じ人身事故でも、その中身が違う。
事故でも、その事実でも、それを判別する作業まですると、真実が顔を出す。
この事故では、過失当事者が生きて、その同乗者が亡くなった、らしい。
その同乗者とは、おそらく、運転者の隣、助手席に乗っていた若者ではないか。後部座席の友だちは難を逃れた。当時の助手席同乗者が、シートベルト着用義務がすでにあったか、知らぬ。
ここで問題にしてるは、死者が出る事故で、過失当事者が死んだか、否か、であって、助手席同乗者がシートベルト着用、当時義務を怠ったか、その事ではない。
ここのブロガーの推察の域を出ていないのは、犠牲者が前部座席搭乗者である、という前提での話しの内で、である。

十三年前か、七年前か、何年前か、定かでない。
その日のレシートの電話番号で、コンビニの店のおばあさんに聞いた。事故の記憶はあるが、何年か前、なのである。

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週が変わり、再度警察署に電話した。そしたら、こちらが当該現場は十三回忌らしい、七回忌もある、と言ったからか、七年前までの所轄管内の事故住所を回答してくれた。それ以上は、警視庁の情報公開センターで、という。
それで、ものはついで。
警視庁の同センター、開示請求は可能だが、人身事故は捜査対象だから外だ、という。請求受理しても、発行するコピーは有料で、個人情報は黒塗り部分がある、という。
その辺が、公的機関と、マスコミ自由業の、境界線なんだな。

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そこで、当老ブロガーが出した結論は、こうである。
十三年前の人身事故で、死者が出た。その死者は、おそらく十代の若者。
そして、おそらく運転過失者では無い者が、その犠牲者。

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老ブロガーの執念と、その犠牲者のたとえば無念。
道端の添花が、聖書の聖句にある、をおもい出させ、老いた者の執念と、若い犠牲者の無念とを、交錯させたやも知れぬ。

御心にかなうよう、お導きください。 アーメン

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東日本大震災から一年後。その年のイースターを過ぎての、ある日。
コンビニに行く途中。同じ電柱に、二束の花束。ひとつは、白とピンクのカーネーションを主に、ペットボトルの水はすでに緑に濁ってある。もうひとつは、カスミソウと他。
花の種類を確かめて、腰をかがめて、バス通りまで出てしまった。
誰か、これを読んでいるのだろうか。
白とピンクのカーネーション、がそう思わせた。

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コンビニからの帰途。同じ電柱にある花束、向きが変わってる。歩道に花面が向いている。
誰か、これを読んでいるのだろうか。

コンビニからの帰途。同じ電柱に、花束が、ひとつ増えて三つ。増えた分は、茶色の包装紙。
誰か、これを読んでいるのだろうか。
おっとっと。ペテロの三度だ。すべてがクリスチャンのそれとはおもえない。

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60年住んでいる、という御婆さんに聞いた。
その舗装したバス通りが、当時土埃を立てていた時からの古老ではある。
十三回忌の翌年もまた、花束が添えられてある、理由を訊ねた。
彼女は答えた。それで、理由がわかった。
でも、その理由は、ここには載せない。
それが大人の分別というものだ。

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「カラー版 徹底図解 世界の宗教」を買った。
コンビニで、である。さほど広くないのに、何でもあるなぁ。
さて、その中に、「キリスト教」の章があって、写真豊富の図解で、わかりやすい。
そして、他の章、イスラム教も興味がある。「宗教の基礎知識」の章もある。
その基礎知識の項、感謝祭よりも、大事な行事がある、ということで、
それがペンテコステである。
なんだ、それさえ知らなかったのか。モグリだったのか、と詰問されると。
ですから、そこは、「藻くじログ」と、辻褄合うでしょう。

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本年、ペンテコステ、それはポール・ニザンの命日でもある。
1940年、オドリュイックで戦死、35歳。
1931年処女作『アデン・アラビ』を (« J’avais vingt ans. Je ne laisserai personne dire que c’est le plus bel âge de la vie  私は20歳だった。これが人生の最良の時だとは誰にも言わせない»)を出す。

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この翻訳で、3種類、確認した。他二つは
いちばん美しい時
(もっとも)すばらしい時
勿論、翻訳者は、三人三様、違う人です。
ぼくが初めて記憶したのは、「いちばん美しい時」という翻訳。

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くじに当たった者は、{仮死傷痕}を、思い出した。
以前、もう昔、{仮死傷痕}を想った。それで、今回は、思い出した、という訳です。
求道者、から入信、そして儀式を経る。それから更に信仰を持続する。
この流れと期間は、信者に教会周辺への、年中行事時のチラシ配布等、務めを課す。
クリスマス、イースターは、その最たる日でしょう。
そんな更に信仰を持続する日々に、{仮死傷痕}を想った日があった。
それから幾年経て、今回思い出した{仮死傷痕}とは、如何なるものなのか。
今は、ペンテコステの期間中だ、という事が、要旨だ。

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教会の会員同志で、{仮死傷痕}という個人的見解を述べても、彼らは、返答も、回答も無いかも知れない。
信者になるとは、キリスト教会では、誰が三日後に復活したか、それが要旨だろう。
復活したから、彼をキリストと信じる、それが、信者になる儀式を経る、ことでしょう。

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「藻くじログ」は、自称マッテヤ(マティア)が記した。
勿論、このマッテヤ(マティア)は、[聖書]の彼ではない。2010年、列島に居る、実存主義者の、彼である。
以降、所有する携帯用[聖書]「1987年版」にならい、マッテヤと載せる。

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ここの、[キョウ言]に、『補M称伝』とある。
「藻くじログ」は、『補M称伝』、という結びになりそうだ。 

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「藻くじログ」は、『補M称伝』、{仮死傷痕}が最後のテーマ。
「百卒長」で検索すると、ルカ伝23章。
アメリカ映画で、ジョン・ウェインが演じた役だ、と記憶する。
あの時は、ハリウッドの大スターが、役不足な配役、と感じたが、今おもうにかなりの重要な役だと。それで検索すると、「ジャイアンツ(GIANT)」を撮った監督と同じジョージ・スティーブンスだ。
ここで、百卒長本人なのか、その命令で、偶然イエスの十字架の係りを仰せ付かった部下の兵卒の、槍で刑執行する者なのか、どちらだろう。
通俗的に云うなら、手を抜いた訳さ。
でも、それを推理しなくては、納得させることはできない。先ずMが。

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その時、槍で突いた、その身体から流れ落ちた血を、受け止めた器を、聖杯という。

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マッテヤ(マティア)が見た、その傷痕とは。

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「復元 単立イエス・キリストの教会」の会長は、この百卒長の話をされたことがある。
牧師は、元看護婦長(当時名)の方。医学的にも、ルカ伝23章のこの件は、関心が厚かったであったろう。

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【トマス外典】で外しても、
そのトマスが復活したイエスに驚いた、その逸話は、生きる。

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百卒長が、名演技をしたとも、おもわれない。ルカ伝23章、からでも。

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すると、彼の部下の刑執行の兵卒しか、考えられん。
しかも、その方法は、複数の者が両脇から、刺したんでしょうに。
片方だけが手加減しても、不可か。ならば、心臓に近い方を刺した兵卒が、浅く刺した。血は流れたが、傷は浅かった。
もうひとりの方も、刺しはしたが、動脈を外れた、とか。

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ならば、心臓に近い方を刺した兵卒が、浅く刺した、その訳は。
本人には訊けない。上官命令を遂行したに過ぎぬ。

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でも、彼も一部始終、ここずっーと職務で付き合ってきた訳だろう。ゴルゴダの丘を、十字架を背負い登るイエスと、共に。
それで、それでも、最期の、野次馬の群集の中のひとり、ではなくて、刑執行人だからね。赤い血が見物群集の目に留まる程度に、そうするのであれば、毎度のことか、刺し具合は、できるよね。
それらは、無意識。彼の無意識に働きかけたのが、イエスの威光。
奇跡の数々も、群集の人びとやら、聴衆のひとりでもある彼の耳にも、登りながらでも、入ってきた。
では、彼をも、そしてすでに付いて来た弟子たちをも魅了、畏れさせたのは、何あろう、応えはひとつ。
十字架を背負い登ってきたイエス、彼が惜しまず与え続けた、それであった。
それが、槍で突くが職務の兵卒の手に、無意識に働きかけた。
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両手の、手首か、手のひらに釘打ちされたイエス、酢いぶどう酒、それを差し出したのが、複数居たならば、そのうちのどちらの兵卒か、わからぬ。また、ここでは、釘打ちされたのが、手首か、手のひらか、どちらかはさして問題にしない。むしろ、そうされた時の、長時間の両腕の痛み、筋肉疲労を重くみる。
差し出しされた酢いぶどう酒は、海綿にひたされたもの、とある。
ならば「藻くじログ」で扱っても、違和感はない、だろう。

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その時マッテヤ(マティア)が、磔刑状態のイエスから、どの位置に居たか、
このブログのマッテヤ(マティア)は、わからない。
でも、ひとりとして、彼らの集団の中にいた、とは想える。
だから、野次馬も含めた群集とは離れて、しかも十字架からかなり、兵卒らの制止を受けて、陣取ったであろうことは、推測されて、よいだろう。
何しろ、2000年の距離があるのだから、その事だけは、承知しておいてもらいたい。
「藻くじログ」の自称マッテヤ(マティア)が、当時のマッテヤ(マティア)に、ペンテコステという限られた時間内に、コンタクトを取っているのだから。
しかも、これも忘れていてもらいたくない。それは、くじに当たったマッテヤ(マティア)は、イエスが直接選んだ弟子たちではなく、そのうちのひとりに裏切られて官憲に渡されて後、残された弟子たちが欠員補充で、そうした者なのだ、ということを。
磔刑状態のイエスが、十字架が立たされる前に、弟子たちの集団を見極め、その中に見知らぬ若者のひとりを見つけ、その彼の名がマッテヤ(マティア)であることを承知していたか、自称マッテヤ(マティア)にはわからない。
面識ある無し、はここでは省く。

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しかも、考えても見給え。このペンテコステという限られた期間内。この星の、すなわち地球上。各国の、すでにマッテヤ(マティア)が、同様なコンタクトを取っているとしたら。それを、配慮と呼ぶべきか、はたまた気後れと云うべきか。その数を知らず。
ブログ言語、という新人さんの、異言です。と、言いふらしても。
列島の実存主義者、だそうで。しかし、その列島には、伝統芸能で、落語という形式もあるそうな。それから枝分かれしたんではないの。
いいえ、それは、これから先。どうなるか、わかりません。

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わが身はどうなっても。いいえ、それも困るんですが。
それでも伝えたいことがあるのです。だから、『補M称伝』、なんです。
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くじに当たりし者が印す。この封印は、20105の月、5の週、新世紀の異言をもって現われたる者によりて、解かれるか、どうか。
その間、三つの色がなびく地に、医師が現れ、多くの者が黒色の服を着て嘆き悲しむのを、癒す。その地より出でたる者、東の都へ軍を送るも、冬将軍に追い返される。
また同じ大地に、二度の大きな戦があり、止め処もない涙と血が流される。
その後も、燃える水を巡って争いが続く。

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くじに当たりし者が記す。
十字架を負って登る彼を、人びとが取り囲むよう、列は丘へと移りました。
茨の棘は彼の頭上にあり、微かに幾筋かの赤い線も額の汗に溶けたように見えました。
わたしも、兄弟共々、集まって、何が起こるか。
やがて、三つの十字架が立てられ、彼の十字架が中央にありました。
わたしは、わたしが選ばれる者であることを、彼にどうしても報せたくて。
集まっている兄弟たちの前に歩み出て、もはや十字架上にある彼は、捕らわれて自由を奪われて身動きなりませんでした。
彼同様の形に先ずなり、次いで両腕を更に頭上に掲げて、表しました。
先ず両の手の指を開いて、次に両人さし指だけを残して。
更に、その片方の腕を下げたのです。
それから、口を大きく開けて、自分の名を、声無く叫びました。あの場所で声を出すことはなりませんでした。
十字架上の彼が、それらを気付いたか、わかりません。
それから、先ほど下げた腕をまた頭上に掲げて、その人さし指が誰か、示したのです。人さし指を我が胸に持ってゆき、心の臓の上で開いて押えました。
彼ならきっとわかったでしょう。
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マッテヤ(マティア)が見た、その傷痕とは。

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ルカ伝23章、を読み進もう。
四十七節 百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。
これは、確かに、回心、の発言ですよね。
彼が職務は、この時をもって終わり、次の任地へ即部下の兵卒共々移動したか、わからぬ。
しかし、もはや、処刑した為政者側にいないことは、ここから以降の展開に、相違をもたらしたであろう。
部下の人数が実際百人だったか、わからぬが、日本帝国陸軍とも違うだろうけれど、彼がする命令は、かなりの人数の兵卒を動かせたのではあるまいか。
もはや遺体となったイエスの、事後処理に、彼がどうか関与したか。
まったく、なかったのだろうか。

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岩の洞穴の、イエスを納めた墓。その入り口は大きな石で塞いだのだから。
この入り口の大きな石が外され、中の墓のイエスが姿が消えた。この事に、彼百卒長は、何ら係わってはないのだろうか。彼のお気に入りの部下数名だけでも、その重たい石を移動させることは可、だと。
もし、イエスの弟子たちだけでも強力揃えれば、同様に可、だともおもう。
でも、墓の前門番の兵士は居たんでしょうに。それを見て見ぬふりにさせるのは、命令指揮権のある百卒長しか、考えられん。

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仮死状態にある者を、連れ出すには、健康な若者か慕う弟子でなければ。
それも監視する兵士と諍い無く、事を運ぶには、その間兵士が居なくならなければ。
監視兵士を数分でも数十分でも、そうできるのは、彼百卒長だろう。
四十七節で記したことは、それ以降の出来事に、百卒長はイエス、及び弟子たちの味方、であることの示唆でもあろう。

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順序がずれたが、イエスのからだの引き取り方を願い出たヨセフ。
エスを納めた墓は、真新しい。納めたヨセフは善良で正しい人、と記してある。
神の国を待ち望んでいた、とも記してある。議員だ。
この議員が、回心した百卒長と緊密な手配をしたならば、事は速く運ぶであろう。
仮死状態にある者を、極めて速やかに、然るべき場所に移動させ、後日を期すことは、在り得る。
仮死状態とは、心肺機能がどうか。酸素呼吸が停止すれば、脳細胞は死滅するんでしょう。
槍の刺し傷、止血の血液凝固。
AEDすなわち動体外式除細動器等あろうはずなく。
真新しい墓は、換気が良好であったろう。墓の石も隙間から、呼吸する空気は酸素が濃かっただろう。
荒野で40日間の断食に耐えた強靭な身体。ピラトからの引き取りで、亜麻布に包みしは、微かな呼吸を覚られぬ用意やも知れぬ。
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ルカ伝24章、を読み進もう。
十三節 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、
十四節 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。
十八節 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った。
この、ふたりの弟子、のもうひとりの名は載ってない。
二十四節 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行ってみますと、
ここにも、仲間が数人、の名は載ってない。 
三十三節 そして、すぐに立ってエルサレムに帰ってみると、十一弟子とその仲間が集まっていて 
三十五節 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。
三十六節 こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。
ここまで読むと、エマオ途上のふたりの弟子と、十一弟子とその仲間が、エルサレムで、イエスの復活を目の当たりに見る、ことになる。

だから、マッテヤは、その中にいた、だろう。
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その中にいたからこそ、欠員補充の為の、ノミネートの中にいれられたのでしょう。
そして、くじに当たりし者、となる。
四十二節 彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、
四十三節 イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。

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磔刑前と、刑執行後すなわち{仮死傷痕}を負った身では、すでに違う。
山上の垂訓、を思い出してみよう。
その時の彼の説教する、口から出る声の大きさ、聴衆を前に、マイクなど無いのだから。
その時は布教と言っても、{仮死傷痕}を負った後の身で、同様のことが可能とは、想われない。
だから、みんなの前で食べた時は、活動された、とは記載されてあるが、やはり布教ではなかっただろう、とおもいます。
むしろ、御自身が復活されたことを、その日まで、弟子たちに証するのに、活動されたのでしょう。
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そして、その日が来た。
五十節 それから、イエスは彼らをベタニアの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。
五十一節 祝福しておられるうちに、彼らを離れて、
活動期間は、40日間とされる。
輸血は無かった。もし輸血されて、それが血液型が不適合なら、それで死んだ訳で、40日間は適わぬ。
しかし、聖杯もあった程だから、失血性ショックは、「死に至る病」は底知れぬ程でもあったろう。
輸血は無かった、のだから、槍で刺されての失血は、その量は、一ヶ月の造血で微量が補給されても、ほとんど追着かない。
瀕死の重病人が、かろうじて、飲食し、歩行し、移動し、問答というか、会話をした。
失血量を引き算に比例した残存呼吸量ではなかったか。医者でないから、わからない。鞭打ちでの痛さも、呼吸の妨げになる。
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「藻くじログ」は、『補M称伝』、{仮死傷痕}が最後のテーマ。
そのマッテヤから、このブログのマッテヤまで、
2000年間に、何人のマッテヤが居たか、知らない。
現在、この星の上に、また何人のマッテヤが居るか、それも知らない。
だが、彼らが、同様に祈る時、誰の御名によってそうするか、想うだろう。
そして、誰がキリストか、承知しているからこそ。
そう祈るのだと。
断っておくけれど、{仮死傷痕}は、このブログのマッテヤの見解。
そのマッテヤには、致死傷痕だったやも知れぬ。

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コンタクトを取った心算でも、その相手からは拒否されたかも。
ブログ言語、という新人さんの、異言です。
列島のキリスト教実存主義者、のひとりです。
御心にかなうよう、お導きください。 アーメン
2010.5

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掲載は、「エマオの人びと」
死に至る病」は、記者がその書名の本を読んだ、という引用ではない。
学校の参考書にも記載の、有神論の先駆者キルケゴールの知れ渡ったフレーズ、をあてがった。
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「すでにモラトリアムは過ぎた。地の塩をなめなければならぬ」
「公平と平等とは違う。
 国籍も老若男女を問わない、というは、まさに正義とか公正とか平和とか、自由で在 ることが前提の要件を満たしているが故である」

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ここ約一ヶ月程の間に、岩塩を十日程なめた。
期間中、限定品目が半額、なのである。
去年はそれ、本年は何日通えるか。
普段滅多に食えない焼肉をば、高齢の身で、どれほど消化可能か。夕方一番乗りの日もあれば、ラストオーダーおまけで滑り込み、もあった。
その添え物に、ワサビ、そして岩塩が付いてる。テーブル上の数あるタレ以外に、使用する。
[聖書]では、死海附近だから、岩塩もあった、とはおもうが。
この焼肉店では、ヒマラヤ産のそれを出す。もう行けそうにないから、贅沢品であろう。
当日、主たる使用産地の明示も店内壁にあり。北海道や、千葉を見た。
もうイメージとしては、あの白黒斑の乳牛しかない。若かりし日のバイト先の、あの牛乳出す乳牛種です。
知らなかったもんな。搾乳した後肉牛、という答えは。
千葉も、北海道卸があるんです。バイト先主人から後年知った。極短期間でも両地で働いたから、許してくれるだろう。
お肉食べて、日光浴すると、身体にいい、と日本笑い学会の講師も言ってた。
『貧乏人は梅干食え』です。