かいふう

近未来への展望や、如何に。

ある日

こどもの日。

「シーソー」と、「シーソー」と。

_______________________________

_______________________________

そこに、2台のシーソーがあります。

それは、幅は同じらしいです。

しかし、長さが違います。

1台のシーソー。そして、もう1台がそれ。

ひとつは、例えば。10メートルでしょうか。

両端に漕ぎ手が乗りますから。バッタンゴットン。音が違いは、国籍か。眼の色か、髪の色。

中心から、5メートル間隔ですね。

ならば、もう1台。こちらは、3倍、30メートル。かなりの長さ、というより距離です。

下肢で跳ね上げての、単純動作、運動ですから。相手との、呼吸が合えば。

さほど、苦にはなりません。

しかし、回数増やすには、お互いが承諾、約束なら、それを履行せねばなりません。

これは、信頼というか。友情、友好ですか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

短い方は、「年代」号といいます。

長い方は、「世代」号といいます。

友だち同志なら、乗れます。どちらも、おそらく。

しかし、同じ年代同じ世代なら、いいのですけれど。

違う世代。これは、考えてしまう。

つまり、疲れるんですよ。タイアドリタイア、って言うじゃないですか。

若者と、老人は、同じシーソー漕ぐは。大変だろうと。

シーソーですよ。30年が間隔、感覚で。現在~過去を、互いに、繰り返し。

どうして、漕ぐのか。決まってるじゃないですか。シーは、でもあるんです。

言霊とは言ってません。同音ですか。

親子であれば。公園で。10メートルは無くとも。座るにやさしい木製辺り。

親子であれば。自宅で。30メートルの時間。「世代」号の会話、平均でしょうか。

爺と孫さんが、公園で。「年代」号バッタンゴットン。あれは、老人が童心に帰った訳ですね。

--------------------------------------------------------------------------------------

教会が庭に、シーソーは見掛けませんね。

あったとしても、1台でしょう。それも、「年代」号。

教会堂が中で。シーソーがありました。彼女が(私を)見た。意訳ですか。それとも、異訳でしょうか。私が(彼女を)見る時。まさに、「年代」号。

それから、暫く。ある道路で、「ヒア。(ここよ、聞いて)」、彼女らしい。

それから、約半世紀。先年。東京は、お台場。ビッグサイト。ある会場、スマホで撮影中。スマートな女性が、カメラのファインダー内、映ったんです。

シャッター押したか。それより、外れた後。クールな女の笑い声が、聞こえました。

クールが、救い。クレイジーと同じ、その国では、肯定的。プラス志向なんです。

オフコースアンタッチャブルスマートも同じ

まさに、その距離ですね。「世代」号も、共有した事になります。

その国が、太平洋岸。二つが大都市で、大地震がありました。

この列島、新潟中越中越沖、東日本大震災原発がらみ大震災、ありました。

それをもって。誰それは、故郷に受け入れられない。溜飲下げた、訳です。

オフコース予言も廃れます。預言で、当たったとしてもです。

 

噂でしょうか。その後、その教会が女子信徒会員。役職が地位向上、改善があったそうです。働く強い女性がふえるは、国境ありませんから。

___________________________________

最近。渋谷辺りの、CD店。レコードの針で聴く、レトロがブームらしい。

私所有が、なつかしいドーナッツ盤。戦後、アメリカンポップスの、もはや古典

球界でいう、WBC。云わば、『WMC』。

どうしようかな。当時の会員が、日本人で、名前覚えてる。

どっちへ、寄贈するが。有効利用なるか。考えましたね。

十代、親の金で。キラ星が如く。倉庫にしまうは、もったいない。

誰かに、聴いてもらいたい。

聴く者に相応しいは、誰だろう。

[おもわずハミング♪]する、青春が名曲、数あるんですけど。

 

________________________________

ナウ。ウクライナ

その国がキリストの教会。関東は、首都圏にもあるそうです。

欧州は、母国からの避難民。彼らも、何処かで、シーソーを見るでしょうか。

それとも。譬えのシーソーに、出会うでしょうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私個人は、戦争当事国の被災民、避難民でもありません。

従いまして。彼らが、犠牲者ひとりでも、少ないことを願う者ですが。

同時に。おそらく、最後の、たった一度の、[黙示録]が見えたであろう。その者がひとりとして。エントリーしたと、自負するならば。

オリ・パラリンピックではないですが。それが、開ける未来になるよう、希望する者でありたい。

------------------------------------------------------------------------------

少なくとも。ウクライナの現実をば。共有せねばならない。

________________________________

最低摂取の野菜の定食を食べに、外出した帰路。

路線バスが発着場で、車椅子の乗車口から、真正面の単独座席。発車までの時間、親子連れが、少女未満の子と父親で、乗って来た。すぐ、父親は運転席が後ろの前輪カバー上の高い座席に腰掛けた。先に入った子は、反対側がやはり先頭の前輪カバーが上に座った。未だ、バスは出ない。他の客を待ってる。

その間私は、車内左右両サイド、前面に座った彼ら親子を、見てる。

私が前列の高位置、前輪カバー上の父親。左の娘に、ジェスチャーしてる。

白いコロナ対策マスクが幼女が、父親へ顔向けて。両手を、結んで開いてしてる。

駅前の塾の帰りなのか。それとも、健康ジムの帰りなのか。

30代半ばが父ならば、小学入学前だろうか。幼女が横顔の白いマスクからのぞいた黒い瞳が睫毛が、いじらしい。訴えてる完全無欠父に向って。彼女が眼中には、それしか他ない。

自己が生命力のすべてを無限大に投げ出して、お父さんを見てる。

当たり前だな、生んでくれた父だものな。役得と思ってないな、彼は。

孫のように幼女を見てる、老人が私。わたしが役得なんだ。

われを忘れて、見てた。非日常。

見惚れた光景だ。

こういう日常があるんだ、彼らには。愛があるんだ。愛情なんだね。

偏屈頑固爺さんには、強烈爽やかなパンチでしたね。

参ったな。