かいふう

近未来への展望や、如何に。

主日

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エス

 

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愛の母子像

 

 1977年9月27日にあった事故。

首都圏は、横浜。港が見える丘公園、フランス山。ブロンズ像。

 掲載は、2002年当時。

その後。遺族からの要望か。大理石造りで二段に、改装した。

 Wikipediaで検索。現在の現場写真。母親が死亡は、1982年1月26日。遺族は、後年。社会福祉法人を設立された。

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やはり、ブロンズでなければ。気が済まないだろう。千年超えなきゃ、鎮まらない。

その風雪に耐えるものでなければ。

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米軍機母子殺傷事件。1957年8月3日。

cf.日米地位協定

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 もし一粒の麦死なずば

 

「24 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」

                        ヨハネによる福音書第十二章24

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 このフレーズ。受け止め方は、キリスト教徒と。異教徒では全く違うでしょ。

しかし、「私の軛は負い易く、その荷は軽い。」ともあるのだから。

信者になるなら。それを信じて。長い道のりを、歩いていくのだろう。

主食が、米。その食文化に。また、ですが。歴史や伝統を培い育んで来た。我ら大和民族が。

初めて。 もし一粒の麦死なずば、を聞いたり。見たりした時。どう受け止めるどろうか。

私は、それを、シナリオという形式。劇映画の題名に、知った。

この国の映画界。年鑑代表シナリオに、選ばれて記載されたからである。

1964年製作の東宝映画「われ一粒の麦なれど」。製作佐藤一郎、椎野英之。監督、脚本松山善三出演小林桂樹高峰秀子大辻伺郎

この作品。木下恵介弟子の松山善三が、監督と脚本を兼務。更に、妻高峰秀子をも主演。代表作のひとつ、と言って過言でない。

この映画当時、小児麻痺の話。劇中、生ワクチンも使用されて、成功されてあるから。

この年のブルーリボン企画賞を受賞した。

今時の、コロナ禍。邦画が古典紐解くに参考視聴されても、いい。

その当時。まだ、大衆娯楽は、家族連れもあって。映画館まで、時間とお金を使って外出。そう、回数はない。タダ券貰ってひとり足運ぶ、少年が居ても。

あくまで、観客。外側からの目線で終始する。

年鑑代表シナリオ集を手にして。今度は、創る側からの目線を、得る。

毎度、親子丼。🐔が先か、🥚が先か。

私は、邦画の題名が先。そして、商店街の書店で、[聖書]を購入した。

これ、もうどう考えても。譬えですよね。

その死生観。パンが出て来る。故に、麦もわかるんですが。

彼が、我われを植物のひとつ、パン食の麦に譬えて。その後、説得できるんだろうか。

要らぬ心配しました。

説教聴く、我われに向かって言うのですから。我われに、そうせよと。促してるんだ、と。本人自ら手本示せ、とこう思います。

しかし、到って。本人自ら手本示しました。仮定で始まって、そうなったのです。

開示というか。眼前で、それを証明させられて。

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「こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。」

                          エペソ人への手紙第五章1

 

主の栄光を見たならば。

我われが、次に為すことは、眼に見えています。

  アーメン

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 御嶽山噴火から6年、追悼式。

死者58人、行方不明者5人を出した戦後最悪の火山災害、御嶽山(長野・岐阜県境、3067メートル)の噴火から6年の27日、ふもとの長野県王滝村の慰霊碑広場で、同村などが主催する犠牲者追悼式が開かれた。

 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、例年は遺族や行方不明者家族ら約140人が参加する式の規模を縮小し、65人で実施。参加者は噴火時刻の午前11時52分に黙とうをささげた。晴れた日に御嶽山が眺望できる会場からは、この日は雲がかかって頂上が見えなかったものの、遺族は花を手向け、芳名碑の名前をなぞり故人を惜しんでいた。

 式終了後に報道陣の取材に応じた行方不明の大学生、野村亮太さんの母なつ子さん(59)は「6年は節目でもなく、七回忌もしたくないという切ない気持ちだった。なかなか難しい場所だとは思うけれど、行けるうちは捜しに行って何とか帰してあげたい」と話した。息子の堀口英樹さんを亡くした父純一さん(74)は「岡山から来て、昨日は頂上までは行けなかったけれど山に登ってきた。寂しさは増している」と話した。

 王滝頂上への立ち入り規制は今年8月1日に噴火後初めて解除。遺族や行方不明者家族でつくる「山びこの会」のメンバーも入山している。【竹内紀臣】(毎日)

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この噴火は、山岳信仰の対象としての、霊山その歴史的、時代劇を、一気に吹き飛ばした。島崎藤村の「夜明け前」の書き出し、明治が、消え去った

それは、もはや。素朴な祈り、の畏怖を喚起する、の終息であり。科学の、自然災害の物件でしか。記憶に残らんだろう。

犠牲者数の多さが、それを物語る。冷淡というか。

山への、私的無知。それ以上に、自然が為すは、残酷です。