儒教の祖、孔子を祭る「孔子廟(びょう)」を設けるため、那覇市が公園内の
敷地を無償提供したことが憲法の政教分離の原則に違反するかが争われた住民
訴訟の上告審弁論が20日、最高裁大法廷(裁判長・大谷直人長官)で開かれ
た。原告側は無償提供が「特定の宗教への援助に当たる」と主張。市側は政教
分離に違反しないと訴えて結審した。判決期日は後日指定される。
差し戻し後の1、2審判決はいずれも無償提供を違憲と指摘していた。大法廷
での審理のため、判決では憲法判断が示される見込み。
弁論で原告側代理人は、孔子廟で孔子の霊を迎える祭礼が営まれており「宗
教的性格の濃厚な施設であることは疑いない」と指摘。市側代理人は「一般公
開しており、学習の場や観光資源として重要な役割がある。施設の意義を十分
検討してほしい」と訴えた。
政教分離をめぐり、大法廷は過去に空知太(そらちぶと)神社訴訟など2件で
違憲判断を示している。平成22年の同訴訟の判決では、宗教的施設に公有地
を無償提供する是非について「施設の性格や無償提供の経過と態様、一般人の
評価などを考慮し、社会通念に照らし判断すべきだ」との判断枠組みを示した。
(産経)
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十代後半の、学生服での授業。熱心な漢文の教師の方が、生徒の間の通路を、口角泡をを飛ばす手前の解説であった。
戦前の年代の方々が鞭撻で、漢字の頻度は、日常的。影響の歴史は、計り知れない。
素養としての学問。武士や僧侶の必修科目でもあったろう。音読で聴いても、格調高い。学ぶに値する。
中國が起源の、数々の教えは、史記や三国志から、古典の光栄と教訓を誇示して来た。
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だが、しかし。天安門事件辺りから。果たして、生きているのか。生かされてあるか。
疑い始めた。勿論、それは、共産主義、社会主義体制。社会構造の話であり。
当時、教科書に載ってた、三大宗教が、年代順。儒教、キリスト教、イスラム教。
問われるは、昨今。宗教史の圏内ではなく。21世紀、その有用性に思えてならない。
儒教は、有用性ありや。
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学びはしたが。私個人は、記憶の過去であり。需要頻度も下位、ほとんど無い。
ひとり旅。長崎は坂の道。夜間狭い坂を下りたは、孔子廟前。入園できる訳もなく。ここにあったか、という感じ。
更に後年。バイクを駆っての足利市。史跡足利学校敷地内、孔子廟の看板見た。
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それで。何処まで行っても、もはや古典なのである。
天安門事件時。紅衛兵が、孔子廟を襲い、破壊した。そのニュースは、中国人が自ら、自国の歴史を、史跡を壊したのだから。何をかいわんや。マルキストが、孔子爺をやっつけた。ハイ、それまでよ~。
「論語」が。準急に乗ったで、無神論に飲まれてしもうた。そんな所感である。
イスラムに対する感覚からは、キリスト教布教が先鋭化する現況。
親善外交が為の、その教養が為の、選択科目としての古典。その位置付けでしょうか。
それを支える有識者。無責任が許されるファンではなく、固定客が居るでしょうが。
場所が、沖縄だからね。