かいふう

近未来への展望や、如何に。

主日

 

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エス

 

 

                            

無神論国家が、「人民」と「国民」との差異。それにて、国民をば欺瞞と搾取の暗闇へと捕縛する。

 

  12 「反逆の家に言え。これらがなんであるかをあなたがたは知らないのか。彼らに言え、見よ、バビロンの王がエルサレムにきて、その王とつかさとを捕え、これをバビロンに引いて行った。

 20 罪を犯す魂は死ぬ。子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。義人の義はその人に帰し、悪人の悪はその人に帰する。

30 それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。
31 あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。
32 わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。

 

 エゼキエル書第十七章12・第十八章20・30~32

 

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バビロンが捕囚。よく知られた[旧約]である。世界史が好き、というか。得意な学生なら。高校辺りの教科書には、太字で印字されてた、記憶を持つ。

民族は、時に。武力と兵器によって。他国から侵略され。その敵の王の裁量もしくは

機嫌を損ねぬ命令によって。何処へでも、移住転籍させられる類の処断のものだ。

ユダヤの民に、すぐれた預言者が居ようが。お構い無し。

それで、彼らは。異民族から、守らんが為。研ぎ澄まされた資質と信仰の祈りをもって。有らん限り。民の損失と、延命を計らんと。

元来、ユダヤ人でない者が、如何ばかり。彼らの苦難と離郷の道程を、想えるだろうか。

故に、預言者なる者。彼らの存在を通して、知るしか他術をしらないのである。

 

[新約]の主を知ればこそ。知って、信じたが故。[旧約]に遡り、主の出現に至る。その過程も併せて、ユダヤの民の歴史を解明するものである。

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教会に参集して。御言葉を給わり、それを。教会外へと持ち帰って。戒め、教訓とするは。そういう差し迫った状況が、眼前に来て。危惧と不安に囲まれた、感が否めない。

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私は、「エゼキエル書」を、「ザ コンチネンタル」からの若き長老たちから、学んだ。

その求道中の時代、その過程は、否めない。

特に、二人の宣教師、彼らについては、記憶がある。主たる彼に、別れの最後。私は言った。「マイ インディペンデント・・」

それは、当時。未だ私が属するべき教会を、見知らなかったが故であろう。

もうひとりの彼。「ジャイアンツ」と云ったら。彼は、わからない。と、日本語で答えた。動名詞も使った。求道中の我は、「トレーニング」してるんです、と。

実際は、「ビヘイビアリング」だったけど。

私は、観た映画のひとつ。世紀の美女リズ・テイラーと、共演したJ・ディーンについて。彼に投影した日本人と、太平洋戦争と戦後の我ら「団塊の世代」を、代弁した訳だが。

それは、異言その域を出てなかった様、に思える。

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エゼキエル彼は、[旧約]の預言者そのひとりである。

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本日は、異言、預言。その相違を述べるは、主旨ではない。

「ザ コンチネンタル」は、それこそ。差し迫ったこの国が、もうすぐ迎える世紀のイベントではあるが。五輪の数に比してある訳でして。

而して。世界に散らばる民族の多種多様性は、その国家数は、数十倍もあるであろう。

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端的に言う。日本海を挟んで。その大陸に在る彼の国は。

無神論が独裁、人民が国名に。而して、その実。共産党が、その国民を牛耳っているんではないか。何のことはない。己が国民を、『バビロンが捕囚』がごとく、捕縛してるとちゃうか。

当然。その中には、自治区とは称しているが。ウイグルチベット、そしてモンゴルも含まれる。

彼らが誤解、すなわち誤謬は。捕囚する対象が、やれイスラム教、仏教。そしてかって蒙古襲来で被害被った倭寇故と。慢心してるのではないか。

無神論を大っぴらに標榜してしまえば。何でも許される、というものでもあるまいに。

それは、有神論者と、その構成員が多数の国家には、明白な敵対行為の、表明に他ならないだろう。

指摘、解明しただけで済まんのよ。

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予想どおりとはいえ、アメリカのアンカレッジで行われた米中両国の外交トップの会談は、マスコミの前での激しい非難と攻撃の応酬で始まった。

 その後、2日間にわたって行われた協議は非公開であり、メディアの前でと同じような応酬が続いたかどうかは不明である。しかし、会談後の両国の出席者のコメントを見ても、関係改善の糸口が見えた印象は皆無だ。

 アメリカのブリンケン国務長官や中国の外交トップである楊潔篪共産党政治局員の発言記録を読むと、ブリンケン長官は新疆ウイグル自治区や香港、台湾、アメリカへのサイバー攻撃と中国に対してバイデン政権が抱く懸念を淡々と列挙したうえで、「米中関係は問題によって競争的であったり、協力的であったり、ときには敵対的である」と静かなトーンで述べている。ことさら敵対的な雰囲気を強調したわけではなさそうだ。

アメリカ流の民主主義を批判

 ところが、これを受けた楊氏は延々と独自の主張を展開した。それは中国の内政から外交にわたってその政策の正当性を主張するとともに、アメリカは内政干渉をやめるべきで、アメリカこそ国内に数多くの人権問題などを抱えていると非難するなど、いつもながらの内容だった。

 聞く相手がうんざりするほど延々と自説を展開するのは、首脳会談や外相会談などで中国がよくやる手法だ。2019年12月、北京で行われた安倍晋三首相と習近平国家主席の会談でも、安倍首相が新疆ウイグル自治区での人権問題や香港問題に言及した途端、習近平氏が顔色を変えて延々と自説を唱えた。このため、日本側が辟易したことがある。

 ただ、今回の楊氏の発言で興味深かったのがアメリカ流民主主義に対する批判だった。楊氏は「アメリカや西側世界は国際世論を代表するものではない。世界の圧倒的多数の国々は、アメリカが提唱する普遍的な価値観やアメリカの意見が国際世論を代表するとは考えていない」などと述べ、民主主義の伝道者であるかのように振舞うアメリカを非難した。

 その大前提にあるのは、「アメリカにはアメリカ流の民主主義が、中国には中国流の民主主義がある」という理屈である。

 民主主義は普遍的価値を持っており、国によって定義が大きく異なるものではないというのが、民主主義国での常識だ。ところが中国の主張はまったく異なる。「民主主義のかたちは一つではなく、各国にそれぞれの民主主義のスタイルがある」というのだ。

 もちろん、これは中国に都合のいい勝手な理屈以外の何物でもない。中国は自分たちも自由や民主主義を大事な価値として独自のやり方で実践していると、臆することなく主張している。

 こうした中国流民主主義を「民主主義とは似て非なるもの」と一笑に付すことは簡単だが、それでは済まないのが現実である。中国の政治や法律など統治システムのすべてがこの理屈で成り立っており、それに基づいて外交や安全保障などの国家戦略が構築されている。それを踏まえたうえで西側諸国は対処しなければならないのだ。

人民主権」の国・中国

 では先進民主主義国の民主主義と中国のいう民主主義の決定的な違いはどこにあるのだろうか。そのキーワードは「人民」という言葉にあるだろう。

 習近平主席をはじめ、中国の指導者はしばしば「人民」という言葉を使う。その一方、われわれになじみのある「国民」という言葉はほとんど使わない。中華人民共和国という国名をはじめとして、憲法や法律も、人民を使っても国民という言葉は使われていない。

 問題は人民という言葉の意味だ。中国憲法では第1条で、「中華人民共和国は、労働者階級が指導し、労働者、農民の同盟を基礎とする人民民主主義独裁の社会主義国である」と規定し、さらに第2条で「あらゆる権力は人民に属する」「人民が国家権力を行使する機関は、全国人民代表大会および地方各クラス人民代表大会である」などと定められている。

 先進民主主義国で当たり前のように言われる国民主権という言葉はなく、中国は人民主権の国なのである。では、国民と人民は同じなのか。

 中国近現代史が専門の小野寺史郎・埼玉大学准教授の『中国のナショナリズム』(中公新書)によると、建国初期のころ、毛沢東主席は「抗日戦争期は抗日戦争に参加した階級、階層はみんな人民であり、日本帝国主義者、漢奸、親日派は人民の敵である」「解放戦争期(国共内戦)は、米帝国主義とその走狗、官僚資産階級、地主階級、国民党反動は人民の敵である」と述べている。そして、「社会主義建設期は建設事業に賛成し、擁護し、参加する階級、社会集団は人民であり、社会主義革命に反抗し、敵視し、破壊する社会勢力は人民の敵」としている。

 周恩来首相はよりクリアに定義している。「人民と国民には区別がある。人民は労働者階級、農民階級、反動階級から目覚めた一部の愛国民主分子である」としている。そして、人民に含まれない人たちについては「中国の一国民ではあるので当面、彼らには人民の権利を享受させないが、国民の義務は遵守させなければならない」と説明している。

 つまり、国民と人民は異なるものであり、国籍を持つ国民全員が人民であるというわけではない。人民は中国共産党の掲げる思想や政策を支持する国民の一部の人たちであり、それを支持しないで批判や反対する国民は人民ではないのである。

 そればかりか人民に属さない国民は、人民の敵であり、人民が持つ権利は行使できないが、法律を守るなどの義務を負うというのだ。

 半世紀以上も前のこうした毛沢東周恩来の考えが、まさか今日も生きていることはなかろうと思いたいところだが、残念ながら現行憲法を見る限り、国民と人民を区別する考え方は明らかに継承されている。さらに中国の憲法には「いかなる組織ないし個人も社会主義体制を破壊することを禁止する」とも記されている。つまり人民ではない国民に対するさまざまな弾圧や抑圧が法律上、正当化されているのだ。

毛沢東の言葉は今も生きている

 中国の論理からすると、中国共産党が一党支配する現在の中国政治を批判する人は、中国の国籍を持っていても主権を行使できる人民ではなくなるばかりか、人民の敵となってしまう。中国のさまざまな法律に基づいてさまざまな権利を奪われてしまううえ、言動が規制されてしまう。

 新疆ウイグルにおける大規模な人権弾圧も、中央政府に批判的な活動をする人権派弁護士や作家、ジャーナリストらの拘束も、彼らを人民の敵であると規定することですべて正当化される。そして習近平体制の下でこうした弾圧がますます強化されていることは、毛沢東周恩来の唱えた国民と人民の区別が今日も厳然と生きていることを証明している。

 先日閉会した全国人民代表大会で認められた香港の選挙制度改正は、この理屈をついに香港にも徹底させることを意味している。香港の場合、人民と愛国者が同じ意味で使われており、新たな選挙制度では香港の政府や議会など統治システムには愛国者しか参加できなくなる。

 立法会選挙に立候補しようとする者が愛国者であるかをチェックするのは、人民主権を守るために当然の合法的な手続きであるということになる。その結果、香港の民主化や独立を主張する人々は愛国者ではない、人民の敵となるのだ。

 米中高官会議における楊氏の発言にみられるように、中国が独自の民主主義論を今後もますます前面に出していくだろうことは明らかだ。そして、中国の論理は世界中の独裁者や権威主義的国家にとっては実に都合のいいものであり、感染症のようにあっという間に世界中に蔓延しかねない。そうした国々が中国を中心に手前勝手な民主主義論を掲げて結束したときに国際社会はどうなるのか。

 これは民主主義と権威主義のいずれが優れているかという次元の話ではなく、民主主義が直面している危機だろう。先進民主主義国を中心に国際社会が連携してその価値を高める努力をしなければ、手前勝手な民主主義が国際社会に広がりかねない。世界は今、そんな状況にある。(東洋経済)

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 毛沢東の言葉は今も生きている。と、云うならば。それは、厄介な事だ。

あの天安門事件、あの広場の惨劇。それが、再度繰り返されても。それが現状、止むを得ない。そのシグナルに何ら変わりはない。その暗黙の了解を、示唆してるに過ぎない。まさに、過去に留まったまま。文字通り、旧態依然。

 

上海、深セン等の、大都市や新興地域は。既に、資本主義、自由主義の気風を享受、闊歩してるに。そこでの利潤は、上納されたら。独裁共産党が党員上層部幹部に、その家族子弟のみに、偏向配分される仕組み、という訳だろう。

香港は、北京指令で、住民は法律改悪の憂き目に遭っている。こうした、海洋沿岸部への締め付けは、同時内陸部異民族への圧制と幽閉。それへの無関心をも誘う。

対岸は、誰の目にも、台湾だ。

引き続き、関心を持って、注視しよう。

 

アーメン