かいふう

近未来への展望や、如何に。

「ファ留守の備学」プロローグ

kaihuuinternet2005-09-30

それは、もはや「悲劇」でも「喜劇」でもない。{笑劇}の誕生である。
したがって、『美学』を問わなくても構わない。更に「び」の変換により、{美}のみに固執する醜態からも解放される。それのみに陶酔するを拒否して、自覚する。本来、笑って済ませばこと足りるのを承知で、そう出来ないでいる、囚われ自由を奪われた人々を、想い、彼らを救い出そうと、密かに。
衛星放送は、若くして死んだある青年の伝記映画を流す。その{悲劇}の死を、美しい、と記憶する。
また{喜劇}の王様は、その映画で、時の独裁者と対決した。危険を省みず、出征した兵士同様それと戦うことを躊躇わなかった。この抵抗を、美しい、と記憶する。
若くして説得するタレントも持ち合わせることなく、虐げられた人々を喜ばせて勇気づけるタレントも持ち合わせていない。それでも、若くして自由を奪われ、あるいは虐げられた人々、彼らの闇夜の涙を想い、笑うのをしまい込んで、備えるならば、来るべき暁に何を見るであろうか。