かいふう

近未来への展望や、如何に。

《ユダ》と「ユダ」

キリストを裏切った者と、それとは違うもう一人の「ユダ」。
後者はどんな胸中だったろう、当時。
しかし、前者が《裏切り者》だということは、ダヴィンチの「最後の晩餐」にあるように、他の弟子には判りかねる事柄であったろうし、実際《ユダ》との最期の会見、に彼と顔と顔を寄せた間際、囁くように彼に告げたのだから、同じ場所の他の弟子すら気付かなかったはずだ。会話した主と、裏切るであろう彼と、二人しか。
自称クリスチャンは、ある時期、この世で一番可哀相な者は《ユダ》、と想ったことがある。
では、胎内被爆で生まれて、初めての一年目の誕生日を祝ってもらえないで死んだ乳児は、それじぁ何番目なんだ、と疑問を抱いたら、{考える葦}どころでなくなった。
《ユダ》は、キリストと、対なんだ。《ユダ》が要るから、キリストが居るんではない。これが、{主客転倒}の始まりか、トンデモナイ。
キリストを証するため、当時《ユダ》が居る。要るんではないだろうに。銀貨が要るんだ、と欲した彼が居たんだ。いや、これも違う。金に目が眩んで、のことではない。それを手にした彼が予想したより少額で落胆し、首吊った、とはおもわない。
これ以上は、各自、[教会]で学んでいただきたい。なにせ、自分は〔元執事〕に過ぎない。
でも、これだけは述べておこう。くれぐれも《虚構の宗教》だけは注意してください。