かいふう

近未来への展望や、如何に。

向学心に燃える彼女。

kaihuuinternet2007-04-29

スネかじりの学生の時、同じ建物内で、見も知らぬ女の人を、見た。
コンクリート製の階段の踊り場から、まわって下りて来る。奇矯、という感覚だな、とおもいつつ、それが適確な該当する語か、辞書で未だ調べてない。彼女は、先端の指を曲げたまま、片方上腕部を振るように、身体全身をくねらせて、階段縁にもう一方の手を添えて、下りる動作を続ける。そう、下りて来る、というより、見苦しい動作をしている。
彼女の顔には、眼鏡があった。とても度が強いそれだ、と感じた。
ここ一年見掛けた記憶がない。教室でも見ない。学年が違う。
スゲェな、よく通えるな、とはおもっても、傍観者以上にはならなかった。それは、イメージの問題だと、言い聞かせた。あの身体で机に向かえば、近眼にはなるだろう。あの曲がった指では、髪も梳かせないだろうから、歩く度にまるで奴が行列で舞わすごとく、おかっぱ頭が合理的で衛生上、刈るほうも判る。
自分のイメージでは、盲目か、車椅子か、手話を操るか、どれかだ。
近眼は、該当しない。先端の指を曲げたまま、片方上腕部を振るように、身体全身をくねらせて、階段縁にもう一方の手を添えて、下りる動作を続ける、も該当しない。そして、講義を聴けるなら、やはり該当しない。それに、一度も教室で見掛けないではないか。
自分はイメージした。盲目、なら手引きしよう。車椅子、なら押そう。そして耳が聴こえないなら、せめてジェスチャーで。
だが、彼女は、そのどれにも当てはまらなかった。

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その後、何度か見掛けた。でも、同じ教室からの入退室は、記憶が無い。やはり学年が違うのだろう。それは大きい、と言い聞かせた。ノートをどうする、本を貸し借りする、などは生じようがないからだ。

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見掛ける度、大変だな、とおもう反面、本当に卒業まで通えるのか、疑った。福祉専門とはいいがたく、学生数も多い。
受け入れた学校を肯定し、彼女の向学心を肯定し、他に何があるというのか。自分も、向学心にプラスになったではないか。

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本当は、福祉間柄史、というような直の付き合いはないのである。声を掛けたこともない。ノートも本の借り貸しもする隣に座ったこともない。しかし、意識はある。というより残っている。
あれから何十年。向学心に燃える彼女、はイメージしない。医療だ、介護だ、年金だ。
近眼の、先端の指を曲げた、身体全身をくねらせて歩く彼女が、今も自分の記憶にいる、だけである。
それが消えないことを、不思議がっている自分は、老眼の、部分入れ歯を外すのに指を曲げる、腰痛もある、そんな昨今である。
後年、名歯科医に、外した部分入れ歯は、冷凍庫の隅にあるが。