かいふう

近未来への展望や、如何に。

シスターと眼が合う。

kaihuuinternet2008-03-03

ある所へ出向いた。結果報告を聞くためである。数年前に新たに建て替えたであろう、その建物は、中で働く職員たちも、その快適な労働環境も手伝ってか、意欲的で活発にみえる。
先日は、検査日ということで、参集した人びとも、ホールで緊張した面持ちで順番を待っていたが、その間、あるシスターが自分の隣に腰掛けた時があった。
その窓口も次の人が込んでくるからと、すぐ席を立った自分だが、ならば、隣人になったそのシスターにどう話し掛ければいいというのだ。
通俗の者が、聖別された者に、どういう話をすれば、挨拶代わりになったというのだ。
自分も、単立のプロテスタントです、などと言及するか。
だから、この日が来るのは先刻承知、今度はこちらが彼女の隣に座ってみよう、などとおもったりもしたのだった。
先日と同じホールで、折りたたみの椅子に腰掛けていると、その前に並んだ幾つかある長椅子のひとつに、シスターが座った。彼女は振り向いて、自分と眼が合った。
節目ならば、こちらと同い年だろうが、本当の年齢はわからない。それが、先日と同一人かも、わからない。この近所の同じ会のシスターかも知れない。こちらが結果日で、彼女は検査日かも知れない。もう、眼が合ったのだから、隣に行くこともなし、にした。おそらく、別人だったろう。
本日のシスターが、帰って、俗界で見たオジサンの話はしないだろうから、それだけのことだ。
自分の襟には、ブルーリボンが付いていたが、それも上着の色に隠れて、記憶に残らんだろう。青と白はマザー・テレサの色、青はマリアのそれ、とは聴いたが。
それでも、カトリックは修道会が数あるから、意識するかどうか。
ブルーリボンがどんな運動の象徴かも、カトリックの各々の修道会の会風には、なんら係わりは無い。
そもそも、自分が単立のプロテスタントを、カトリックプロテスタントと自称してきていたが、その論拠は、ただ洗礼した方が女性であって、その方が主任牧師であったが為に他ならない。
だから、自分が言うシスターとは、カトリックの各々の修道女会の方々の総称、ということになる。
確か、共同訳も探せば持ってあるはずだから、それ出版以前よりか、親近感は増しただろう。
日本史でも、フランシスコ・ザビエルは、知るところである。
だから、同じ主に祈る者同志、こちらは、半聖半俗であろうと、何十年も祈る時間は共有したであろうから、眼が合うことがあっても、それも主の御業の為せること、と。アーメン