かいふう

近未来への展望や、如何に。

ポーランドの映画監督の邂逅。

NHK教育で、アンジェイ・ワイダ監督のインタビュー番組を視聴する。
最新作が「カチン」で、彼がこの作品にかける情熱と執念が知りたくて。
わかった。以前載せた、十代後半時、リーダーズ・ダイジェスト別冊「第二次世界大戦秘話」の「カチンの森の虐殺」は、やはり旧ソ連スターリン時代のソ連軍の仕業だったのだ。
しかも、ワイダ監督が拘ったのは、その被害者側ポーランド軍将校の中に、彼の父親がいた、というのだ。その戦争の隠された史実を、劇映画で再現した訳である。70年経ての、邂逅である。
もうひとつ、代表作「地下水道」のラストシーン。以前、ここで評したのは、川に注ぐ排水溝の鉄格子で若いカップルの最期、それは、光ある西側自由主義圏への云々と書いたが、監督の証言では、あれは、対岸に陣地を構えたにもかかわらず動こうとしないソ連軍。当時検閲してたは東側親ソ政権、何故あの時救出に来なかった、それを暗に観客同胞に伝えたかった、という。
灰とダイヤモンド」も、そう。原作は、主人公が社会主義者の首領。それを、暗殺した反政府主義者の青年がゴミの山の中でのた打ち回って死ぬラストシーンで検閲をダマし、本来の意図を観客同胞に伝えたかった、という。
政治と、芸術。民衆にとって頑迷な旧イデオロギーを、劇映画という表現形態を持って打破し、観客同胞たる民衆に周知しようとした、彼の高邁なる意志を感じます。
それが、「大理石の男」から「鉄の男」では、市民弾圧に数百人の犠牲者が出たにもかかわらず、それを隠ぺい、国内外に真実を知らしめない当時政府に、その同一事件の真相を執拗に、観客同胞たる民衆に提示しようとした。
「鉄の男」のモデルとなった地の、後大統領となるワレサ率いる団体組織「連帯」と二人三脚での前進は、やがて来るべき西側自由主義圏への解放改革へ、加速度を付けて、戦後ポーランドを牽引したのではないか。
だとすれば、この監督の作品系譜は、母国の政治体制の暗黒の殻をひとつひとつ剥がしつつ批判した、特筆すべき国民的映画作家でしょう。
トルストイの小説「戦争と平和」が歴史小説なら、これら作品は歴史映画と言えます。
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【ベルリン=三好範英】ロシアのメドベージェフ大統領が6日、ワルシャワを訪問し、第2次大戦中にポーランド軍将校など多数がソ連の秘密警察に殺害された事件を描いた映画「カチンの森」を制作したポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督(84)に「友好勲章」を授与した。

約2万2000人が殺害された「カチンの森事件」は、両国間の歴史問題となっていたが、メドベージェフ政権の下でソ連秘密警察の犯行として認める動きが広がり、ロシア下院は11月、スターリンが指令したと認める声明を採択していた。(2010年12月7日読売)

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日本国も、かなり以前、勲章を授与しましたね。
それで、アンジェイ・ワイダ監督は、その時の副賞の金額で、ある博物館を創設した。
その名が、少し風刺が利いてる。理由は、わかります。
その当時、同盟国はどこか。でも、ワイダ監督は辞退はしなかった。
受けて、尚且つ、風刺が利いてる名を冠して、館を設立した。
その意味を、これからの若者は読み取ってほしい、ですね。


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【ベルリン=中谷和義】共産党政権下のポーランドで、民主化運動を指揮したレフ・ワレサ元大統領(64)を、秘密警察のスパイだったとする告発本が同国で出版され、論争を呼んでいる。

ワレサ氏は疑惑を全面否定、出版を後押しした元側近のレフ・カチンスキ大統領を名誉棄損で訴える構えを見せている。

23日に出版された「秘密警察とレフ・ワレサ」は、共産主義時代の秘密警察資料をもとに、ワレサ氏が〈1〉1970〜76年まで「ボレク」というコードネームを持つ秘密警察の非公式協力者だった〈2〉大統領時代の90〜95年、自らに関する秘密警察資料を取り寄せた際、資料を返却せず証拠隠滅を図った──と指摘した。

初版4000部は数時間で売り切れた。

著者は秘密警察の資料を管理する「国家記憶院」所属の2人の歴史学者。同院の院長は、カチンスキ大統領と親密で、大統領の双子の兄と出版の準備に当たってきたという。

ワレサ氏は80年に自主管理労組「連帯」議長となり、東欧民主化のリーダーとして活躍。83年にはノーベル平和賞を受賞した。連帯出身のカチンスキ氏を当初は側近として遇したが、民族主義的な強権手法を批判し、たもとを分かった。(2008年6月26日読売)