かいふう

近未来への展望や、如何に。

あるクリスチャンが選んだ米映画2本。世界映画2本。そして日本映画2本、は過去ブログで検索。

イエス

ハリウッド映画である。そのひとつは、「サウンド・オブ・ミュージック」(^^♪。これは、先年、述べているので。省略。で、もうひとつが、「ミラクル・ワーカー(奇跡の人)」。共に、米国だから、製作できた、と思うから。
私が、マルキストにならずに済んだは、マルクス兄弟のハチャメチャコメディーに眼が向かったからであり。難解な「資本論」は、後日、専門教授たちが12,3人集まって、共著でも出版すれば。事足りる。「宗教は阿片である。」との軽佻浮薄な喩えは、もはや棄教せし者の、致命的末期に他ならない。IQとそのキャパシティだけを偏重した向きは、欧州社会科学統合の器量ありも、理論の古典たりえても。信仰者を排斥する、旧世紀の遺物。そのイズムは、無神論以外のそれと、迎合しての補完主義が決定的に。

戦争と平和」は、本家のリュドミラ版ナターシャ、旧ソ連映画。原作者が敬虔なクリスチャンのトルストイ
もうひとつが、「かくも長き不在」。戦争は、戦が終わって。3日後に、街並みも駅舎も公園も、元通りになるものではない。水道、電気、ガス等、インフラは、復旧まで細部に渡って敷設及び点検が要る。ましてや、心の傷など30年経っても、定かであるものか。戦時下、少年青年時代だった者が、戦後10年経ても。葛藤やその運命と闘わねばならない。治癒されない重い戦傷者は、その祈りを、「かくも長き不在」の神に。誰を介して、委託することやら。かっての様に、家族や隣人を愛するができぬ彼らの孤独を、周囲から愛されるだけの意識は健在な自負ある、片方向の情況を。この映画の深遠なる問い掛けは、もはやその対象者が、前伴侶であろうがなかろうが。例えアガぺだけで終わろうが。もうひとつを得ようがなかろうが。その傷の軽き者が。重い後遺障がいを負った者たちに。彼らの更生にどう関与可能か。それを、観客に平静に問うのである。
それでも、それは戦後の光景である。
しかし、この先。この映画が撮られた理由の世界大戦。それから今日まで。この地球上に。至る処、あちらこちら。何度戦争が繰り返された事か。落胆と失望に、膝を屈し、惰眠に耽溺した方が、と欲したか。

                                                                                                                                                                                                                    • -

マタイによる福音書:第六章 第三十四節「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。・・・」
この章の前半には、祈り方も記載されてある。
目覚めて、我あるを確認し。されば、本日何を為そうか。そう想えるを、感謝。アーメン